この帰国のルートについて検討する。当時の船は風下方向に進む帆船であり、潮の流れと風向を見定めて航海する。従い、潮待ち、風待ちを繰り返しながら島伝いに移動する。通常、日本から朝鮮に渡る場合、博多、壱岐、対馬、朝鮮半島の順に航海する。神功皇后もこのルートで渡韓した。
帰路はどうか?帰りは1月上旬で北西の季節風が卓越し、対馬海流は年中、南西から北東に流れている。朝鮮半島から対馬までは往復とも同じルートを採用しても、対馬(厳原町中村字清水山、厳原八幡宮神社)から東方向の穴門の吉母(長門国吉母、下関市吉母)に向かう直線ルートは、中間目標として沖ノ島もあり、風と潮の流れに上手く乗れば最短時間で穴門の吉母に到着する。さらに、沖ノ島の沖津宮に戦勝報告した可能性も考えられる。
1月上旬に壱岐や博多を経由するルートは潮と風の流れに直交し、波も荒く航行が難しい。従って、神功皇后が筑紫の宇美に行って応神天皇をお生みになったと言うのは無理がある。
また、冬で寒い穴門の吉母(下関市吉母)に到着された神功皇后は藻を寄せて暖を取って、応神天皇をご出産されたと言う伝説(吉母の語源)は、実態に良くあう。
参考
穴門国、響灘付近の地名について
この後、渡来系氏族の秦氏が大挙して渡海して周防、長門、豊前を中心に定住し、また応神天皇とご一緒に東征するが、同じ渡海ルートをとったと想像される。このルート途中に宗像大社の沖津宮、沖ノ島があるが、渡海の中間目標であったであろう。宗像大社の三女神が、宇佐八幡宮の比売大神として祀られている。
交流史から見た沖ノ島祭祀、森公章、平成25年、「宗像・沖ノ島の関連遺産群」研究報告Ⅲに、朝鮮半島→対馬→沖ノ島→長門の航路の存在の指摘がある。
出土した土器から縄文時代前期には漁民らが漁業の基地として使用していた。その範囲は玄界灘、響灘、瀬戸内海にまで広がっていた。4世紀末頃、九州の宗像と朝鮮半島を結ぶ古代海路、海北道中を利用し朝鮮半島や中国大陸との交易が盛んに行われるようになった。神功皇后が三韓征伐の際、宗像大社、宮地嶽、その他に航海の安全と戦勝を祈った。
海北道中(沖ノ島を通る白線): 季節風を利用した宗像と朝鮮半島を直接に結ぶルートで対馬海流を横切って渡る航路である。三韓征伐の進軍は夏季であるので、この航路に乗って宗像から対馬の北端に達した軍団もあったであろう。この航路は宗像氏が支配・独占していた。
余談であるが、渤海から日本海沿岸への直接渡海についてはこちらにある。季節風に加え、対馬海流やリマン海流を効果的に利用すれば可成り自由に日本海内を航海が出来る。
神功皇后の帰国ルートは、沖ノ島で東西に交差する航路となるが、冬季に対馬・厳原から対馬海流に乗れば短時間に東方の長門に着く。また、対馬北端から直接に沖ノ島に向かい、この島から東方に舵を切る航法も考えられる。これらも宗像氏の支配する秘密ルートであったろう。
宇佐八幡宮と同じく姫大神(宗像三女神)を八幡神と同時に祀つり、沖ノ島を拝する東方に向かって鎮座している。さらにその向こうに穴門国の住吉神社、豊浦宮(忌宮神社)がある。沖ノ島を中心に東西線上に神社を配して、国際航路の安全祈願、国家安寧を願ったのであろう。東の端には下関の住吉神社の境外社として厳島社が鎮座し、西方に拝む様になっている。
吉母の南にある安岡浦の記述であるが、安岡浦からは遠く対馬~韓国沿岸まで出漁していた。250年前の安岡浦保有船の記録によると、漁船62艘、いさば船(対馬や松浦の海産物を大阪まで運ぶ商船)8艘となっている。同じく150年前の記録には、三反船2艘、漁船88艘、磯小船50艘とある。これらの船は勿論エンジンなど無く、改良された帆と航海技術を持っていたが、基本的には神功皇后時代と同じく海流と風の力の知識によるものであろう。
平成21年の外務省のホームページからの引用であるが、海流や季節風の影響により、主に冬場に、日本海沿岸地域に韓国語が記載された多数の廃棄物やポリタンクなどのゴミが漂着していることで、国際的な取り組みをしているとのことです。
その他、山口県西海岸には、空海は冬の下関市金毘羅山付近の筋ケ浜に、楊貴妃は長門市向津具半島の唐渡口に漂着伝説があるが、全くのデタラメとも言えない地理的根拠がある。
下関市の土井ヶ浜遺跡の弥生人も大陸から直接、海を越えて渡来して来た。最近の調査で、中国山東省の遺跡で発掘された漢代の人骨資料の中に、土井ヶ浜人ときわめてよく似た形質をもつ資料が多く見つかっている。
今まで多くの資料では、当時の技術や知識での航海は危険であるといわれているが、海人族の協力があれば問題無い。遣唐使の場合、半数の船が難破すると書かれた資料があるが、受け入れ国の唐の都合で出航時期が悪くならざるを得なかったと言われている。また唐の方も安全で近道の条件の良い入唐航路は日本に教えないであろう。鑑真和上の渡日に多くの困難があったのは、適切な出航場所と時期には監視が強く、監視の無い危険な時期と場所を選んだのであろう。また海人族の協力が無い場合、海賊に襲われる危険もある。
遣隋使船・前期遣唐使船(博多港ベイサイドミュージアム)
神功皇后時代より時代は下るが、近海はオールを漕ぎ、外海から帆を使い風、海流に乗るのことは変わりないであろう。
吉母の隣り吉見の龍王山山頂は標高614m、冬季、大陸から響灘を渡ってきた空気が日本に来て最初にぶつかる山らしい。そのため龍王山近辺は雨雲が発生しやすく、昔から雨乞いの神事が行なわれてきた。また、神功皇后の三韓征伐からの帰還時、軍船は吉見の古宿に到着したと云われている。
響灘、玄海灘の航海目標が防衛最前線でもある。
江戸時代後期の吉母の漁師についての記述を紹介する。吉母漁業の起源は北浦で最も古く、且つ進取の気運が漲(みなぎ)っていた嘉永年間頃より4トンから5トンの4・5人乗りの帆船で朝鮮の釜山沿岸で鯛の流し一本釣り漁を行っていたが、食糧や水の補給は言葉が通じない為困難を極め、暫々紛争を起こし決死の覚悟で上陸を敢行していた。この勇猛巧みな開拓魂を以て操業した吉母の漁師は朝鮮流れ五人乗りと称し「北浦倭寇」 と呼ばれて内外にその勇名を轟かせていた。吉母の漁師は朝鮮南部まで月2回操業に行き、船足7ノット以上だったという。※ 「船足7ノット以上」 は西風に乗る帰りか。吉母では鯛の一本釣りが盛んだった。
長門市仙崎の祇園社縁起によると、第8次遣唐使に随伴した吉備真備は、霊亀2年(716。 正しくは翌養老元年) に玄宗に謁見した。天平5年(733。 正しくは天平7年) 帰国の際、着岸したのが仙崎の湊であり、そこを吉備船﨑と名づけた。 俗に幾布祢﨑と呼ぶのは、それに由来するのだという。
江戸時代の間の朝鮮人漁師の漂着者について冬季の季節風の吹き荒ぶ時期に多発し、268年間に約800件、9000人が漂着した。殆どは対馬、五島列島であったが、次いで長門の北浦海岸で184件、1584人となっている。丁重に送還し、朝鮮事情などを聴取したとか。送還ルートは長崎奉行所から壱岐、対馬経由となっていた。
神功皇后の三韓征伐の往路、「冬十月に対馬を出発して朝鮮半島の新羅に向かうと、天佑神助によって風は順風となり魚は浮かび上がって軍船を助け、櫂を使わなくとも船は進んだ。そして船に沿った波が新羅の陸上にまで達した。」とあり、櫂を使わない帆走があることの証明になっている(参考)。
対馬 ⇒ 沖ノ島 ⇒ 向津具の潮流について、邪馬台国、下関を引用する。
長門市史 歴史編 昭和56年12月 P48、さらに中国関係の伝承では、唐の玄宗皇帝の楊貴妃の墓が、大避神社近くの向津具半島久津の二尊院境内にあると伝える。恐らく、楊貴=ヤギ姓の有力者に付会した所伝であろうが、こうした伝えを生みだした思想的背景に、向津具半島、油谷湾一帯と海外渡来者との歴史的な動向が、やはり考慮されなくてはならない。ヤギ氏と楊貴氏との互用は、早くも8世紀にその実例をみる。
玄宗に関する説話としては、さらに長門市仙崎の祇園社縁起をあげることができる。 それによると、第8次遣唐使に随伴した吉備真備は、霊亀2年(716。 正しくは翌養老元年) に玄宗に謁見した。天平5年(733。 正しくは天平7年) 帰国の際、着岸したのが仙崎の湊であり、そこを吉備船﨑と名づけた。 俗に幾布祢﨑と呼ぶのは、それに由来するのだという。
「吉備真備は帰国の際、長門市に着岸した」 考察
6、7年前に、門司の第7管区海上保安本部 「海の相談室」で7月 ~ 9月 朝鮮南端-対馬-壱岐-九州北部・山口県の潮流と風向きを教えてもらった。コピーしてもらった潮流の地図は平成3年版でした。 各地点の潮の流れがベクトル 「 → 」 で記されている。
Google 地図で、対馬を見て「対馬」 の字の場所を拡大すれば、古家岳、天道山、美津島町賀谷のあたりである。ここから ⇒沖ノ島⇒角島へ真東の潮の流れがある。対馬から長門市(角島・向津具) へは潮が真東に流れて、とても渡りやすい。対馬から壱岐へは潮の流れが北東向きなので渡りにくい。壱岐から九州北部へは潮流から、壱岐の西側の郷ノ浦町から馬渡島の西を通って鷹島町~玄海町へは渡りやすい。 ここは潮流が南東向きである。風向きはどこも南西から北東へ右斜め上の方向である。