下関市の古代の歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

① 年表

下関市の古代の歴史を引用前150年から650年を「西暦 和暦 事項」の順に箇条書きにする。

前150~前50 大神山(華山)中宮権現に保存の銅鉾4本、この年代より祭祀に使用。(現1本神上寺所蔵、県指定有形文化財)
前28垂仁2.意富加羅国の王子、都怒我阿羅斬等、又の名を于斬岐阿利叱智干岐が穴門にくる。『日本書紀』
前28垂仁2.伊都都比古という人物が、穴門の地の国王と称している。『日本書紀』穴門国造に下関地方の国造を任命する。『先代旧事本記』
82景行12.景行天皇は親征の途中、白華山(吉田蓮台寺山)に数日間、吉井の谷間(吉田)に滞在する。『旧市史(原始~中世)』
98景行28.日本武尊は熊襲征伐の帰途、穴門を渡り、この地の悪神穴戸神を討った。『旧市史(原始~中世)』
193仲哀2.四王司神社が創建される。『旧市史(原始~中世)』
193仲哀2.仲哀天皇は熊襲征伐のため穴門に出幸、宮室を穴門に造営して穴門豊浦宮と名づけ、伊都県主が穴門引島まで出迎える。『日本書紀』7年間祭事を行う。
195仲哀4.秦の始皇帝11代の孫功満王が帰化した際、仲哀天皇に蚕種を献上した。
200仲哀9.2.仲哀天皇が熊襲征伐の途上、筑紫橿日宮で没し、遺骸が海路より穴門に還る。大神山(華山)西ヶ岳に殯葬したという。『日本書紀』
200仲哀9.12.住吉3神を穴門直の祖践立が神主となって山田邑に奉祀する。(長門住吉神社の創祀説話)『日本書紀』
538宣化3.仏教伝来。
561欽明22.臨海(穴門)館の修補の記述がある。『旧市史(原始~中世)』
562欽明23.1.任那日本府、新羅に滅ぼされる。
593推古元.4.10 聖徳太子、摂政となる。
604推古12.4.3 憲法17条を制定。
608推古16.随使来朝の記録から銅銭の生産の技術を持つ秦一族が定住する。『随書』
611推古19.百済の琳聖太子は日本に帰化し、永福寺、福生寺(専念寺)を開く。『旧市史(原始?中世)』
630舒明2.8.5 初めての遣唐使が派遣される。
645大化元.6.19 中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺す。初めて年号を定め、大化元年とする。(大化の改新)
646大化2.1.1 改新の詔を宣布。
646大化2.国郡制により穴門・阿武の2国をあわせて長門国とし、国府を豊浦に、国司は草壁連醜経。『旧市史(原始~中世)』→注意: 長門国名の所見は665年と言う説がwikiにある。646年時点はまだ穴門国。
650大化6.百済へ出兵するため、天皇、皇族、軍兵が周防灘を進み、早鞆瀬戸を越え玄界灘へ移動する。『市史(原始~中世)』→ 注意: 日本書紀では660年であり、実際には10年前から対応して居たと言うことか?
650白雉元.2.穴門国司草壁連醜経が、同族贄が長門国麻山で白雉を捕え献上する。穴戸(長門)の調役を3年間免除する。『日本書紀』


穴門国造(あなとのくにのみやつこ、引用)

穴門国造は穴門国(後の長門国、現・山口県西部、下関市周辺)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代、櫻井田部連(さくらゐのたべのむらじ)と同祖の邇伎都美命(にきつみのみこと)の4世孫である速都鳥命(はやつとりのみこと)が国造に任じられたことに始まるとされる。凡河内氏と同祖の天津彦根命(あまつひこねのみこと)の裔孫との説もあるが、孫の践立(ほむたち)が穴門直(あなとのあたい)を賜姓され、国造家を世襲し、後に穴戸直・額田部直・神田直・賀田直等に繋がり、賀田直の後裔は長門住吉荒魂神社祠官家として奉祭し山田姓となったという。

日本神話に穴戸神が登場するように古く関門海峡付近は穴門(穴戸)と呼ばれ、穴門・阿武国造の領域を合わせて穴戸国となった。豊浦郡にあった国府は、古事記・日本書紀では穴門の豊浦宮と記されている。

下関市の仁馬山古墳は県下3番目の規模であり、被葬者は地域最大の首長級、又は践立や近親の者と推定されている。
 




④ 関門海峡あたりの地理(長門国以降)

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長門国府、山陽道、長門関、門司関、豊浦団、臨門駅の位置(参考)