オノゴロ島の場所は淡路島付近では無く、向津具半島の西端であった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

{24A60E9B-8334-4C5B-A44C-93201AFD3539:01}
向津具半島の西端を西方向に鳥瞰

古事記の中で仁徳天皇が難波から吉備に行幸の途中、淡道島あたりから淡嶋と淤能碁呂嶋(オノゴロ島)を眺めている(参考)。

同じ古事記の中の子淡道之穂之狭別島淡洲淤能碁呂島(オノゴロ島)との関係が不明である。記紀での長門国大津郡あたりの歴史を近江国と混ぜた記述などを考えると、記紀の記述を鵜呑みにすることは危険である。

{A7E78386-FA7F-4C0E-813B-D5D2BBC5010B:01}
日本書紀(左端が本文、1から10書)と古事記(右端)の国生みの記述(参考)、複数の説が混乱している。

大体、日本書紀の中での国生みの記述は多様で、オノコロ島は有るが、次に生まれる島々は確定していない。古事記での淤能碁呂嶋(オノゴロ島)の次に生まれる淡洲、子淡道之穂之狭別島を淡路島とする根拠が全く示されていない。淡の読みのアは渡来人の初上陸地を表し(参考)、兵庫県の淡路島ではなく、山口県長門市青海島あたりの淡海の淡としても矛盾しない(参考)!

{0A90547B-C345-4B18-81B7-B33069E3C136:01}
向津具半島

{5E742675-9C74-4C47-96F5-8EA085040B27:01}
先端の拡大

向津具半島の先っぽの油谷島の先っぽ(最西端)に俵島があるが、俵島がオノゴロ島、油谷島が子淡道之穂の狭別島、向津具半島本体が淡洲ではなかろうか!

証明であるが、半島の形状に着目する。俵島も含めた向津具半島全体が団子三兄弟になっているが、①半島の付け根から東、宇津賀地区(千畳敷、竜宮の潮吹き、東後田の棚田)から青海島までが淡洲、②特に楊貴妃の里辺りの広い半島本体が子淡道之穂、俵島の付け根から油谷島が(子淡道之穂の)狭別島、③先端の俵島がオノゴロ島と考えられないか!

{F4D0D1F4-B2EB-4BD5-945F-C14A7815C913:01}
俵島の柱状節理


参考

伊邪那岐命と伊邪那美命がかき混ぜた青海原からオノゴロ島、日本列島が生まれた。また、伊邪那岐命が須佐之男命に命じた勤務地が青海原であった。







最後に生まれる豊秋津島は本州最西端の下関市大字秋根でした(参考)



感想

古事記の方が一意な記述の分、正解を含んでおり、曖昧化・神秘化が下手。日本書紀は後に完成した分、曖昧化・神秘化が進んでいる。