下関市大字秋根の語源は天御虚空豊秋津根別の省略です。古事記や日本書紀の編纂者は各地の地名がまだ定まっていなかった時代に長たらしい名前をつけ、その省略形の短い名前と言うか、日常はニックネームで呼んだのでしょう!
この長たらしい名前で地名に関わる部分は「豊秋津根別」であろう。根と島は同じ意味で「豊秋津島別」とか「豊秋津島根別」でも同じ意味になる。全体を通じた意味は、「豊かな港の島根の国」とか「豊かな港のある山陰の様なゴツゴツした海岸の国」となる。すなわち、本来の意味は下関市から島根県あたりの山陰海岸となる。
秋根遺跡一帯は漢書にある東鯷国、日本書紀などにあるイツツヒコ王国と目される弥生時代の遺跡群であり、古墳時代の穴門国や穴門の豊浦宮、隋書にある秦王国(この時期、応神天皇と共に渡来した秦氏が多く居住した)であったことが論証されている(参考)。
また、邪馬臺国の首都、大和盆地の纏向遺跡の時代区分は、倭国大乱(2世紀あたり)で滅びる唐子・鍵遺跡(大和盆地の弥生時代の遺跡、越系弥生人)の後からと考えて良く、淡路島を含む近畿一円は大和と同時期に時代遷移すると考えられる。
すなわち、大倭(日本、ヤマト)の始まりは東鯷国(イツツヒコ王国、下関市あたりから島根県)からと考えられ、本州の最西端のこの秋根遺跡から日本が始まったと象徴的に考えることが出来る。この国生み神話の本州の名前を短くしたのが秋根であろう!
参考
① 秋根遺跡
② 古事記の国生み神話
②-1 wiki抜粋
④ 豊の意味
④ 秋、安芸の意味
⑦ 東鯷国について
⑧ ヤマト政権の中核の斉系弥生人と秦氏は響灘沿岸から山陰海岸に渡来した(参考)。
⑨ オノゴロ島は山口県長門市油谷町、向津具半島の先っぽの俵島だった(参考)。
10 山口県地名明細書に載る秋根村の小字に市、高伏、穴ガ迫があるとか!この穴ガ迫が穴門の名残りか!