山口県萩市見島は第二の沖ノ島か? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県萩市の見島のジーコンボ遺跡は沖ノ島の奉納品なみの貴重な品々を副葬した墓であった。

663年の白村江の敗戦以降、朝鮮半島から沖ノ島を経由せずに山陰沿岸に到達するための中継地で、高級官人が駐在した可能性も考えらられる。

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山口大学資料

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中央が見島

対馬海流に乗って一気に出雲、因幡、但馬、若狭に到達しヤマトにも行き着ける。


参考




661年からの白村江の戦い時代、天智天皇が長門国大津郡の淡海に滞在したが、見島経由で対馬海流に乗って東行し、福知山市夜久野経由で志賀宮に帰還した可能性も考えられる!

見島と本土との通信であるが、船で対岸が見える距離まで行って狼煙通信して、了解を確認して帰還する方法がある。リアルタイムの交信の場合、複数の船で次々に往復する!沖ノ島と宗像本土でも同じアイデアが通用する。現在、飛行船を利用した通信方式の研究があるが、プラットホーム無線通信と言うが、これと同じアイデアです。通常の見通し通信の二倍の距離まで通信が伸ばせる!本土の山頂の狼煙台(火の山)と組み合わせれば、離島を含め日本全国の通信ネットワークが構築できる。

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