宗像大神の役割、白村江の戦いの前後 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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古事記、日本書紀はヤマト朝廷の権威化・神秘化、国家機密の保持など色々な理由で、曖昧化、未記載、虚偽記載を行っている。万葉集など他の資料と組み合わせると、真実が見えて来た。現代から見たら真実を明らかにしても良い時期と思われる。宗像大社はお言わず様のルールがあるらしいが、少なくとも白村江の戦いに対する宗像大社の貢献など、明らかに真実を語っても良い時期に来ている。沖ノ島の世界遺産への登録の為にも真実が不可欠である。

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沖ノ島の祭祀遺跡から──宗像大神と新羅
2010/4/13(火) 午前 9:30

神功皇后の新羅征討に神威を示したとされる宗像大神でしたが(『宗像神社史』)、千歩譲って、これが「虚史」でないとしても、一つ、大きな不思議があります。


それは、天智二年(六六三)八月、百済救援のために出征した倭国(日本)の水軍に、宗像神がどんな加護の神威も示した形跡がないことです。官軍(水軍)は白村江にて唐・新羅軍に大敗し、翌九月には百済が滅亡します。


さかのぼる大化五年(六四九)、この頃「宗像(形)郡建置せられ、ついで神郡として宗像社に寄進せらる」とあるように(「宗像神社史年表」)、宗像神の祭祀は朝廷からすでに特別に重視されていました。『日本書紀』の作者・編者は、古代史最大の海戦へ向かうという国家の重大事のとき、そこに、宗像神の加護の神威の有無をなぜ記さなかったのでしょう。書紀には、書かれたことよりも書かれなかったことに、ときどき大きな意味が隠されていて、西海鎮護・航海守護の神徳がいわれる宗像大神が、白村江の海戦時に沈黙していることは一考に値するようです。なぜなら、雄略天皇紀にみられたように、宗像大神には親新羅の傾向があり、これは、白村江の海戦─敗戦時にも継続していたのではないかという仮定を考えさせるからです。

コメント: 親新羅と言うより、百済遺民が欲しかった天智天皇に協力した。記紀で日本への帰還ルートを明らかにしたくなかった(参考)。

宗像神社の沖津宮のある沖ノ島は「海の正倉院」といわれるように、ここには、四世紀後半から一〇世紀初頭までの約六〇〇年間にわたる、二十三の古代祭祀遺跡が集中し、それらからは、国宝に指定されただけでも八万点を数える出土品をみます(正木晃『宗像大社・古代祭祀の原風景』NHKブックス)。同書によれば、これら多くの古代祭祀遺跡群は、便宜上、その祭祀形態別に、次のように整理されるようです。
  
① 岩上祭祀(四世紀後半~五世紀)
② 岩陰祭祀(六世紀~七世紀)
③ 半岩陰祭祀・半露天祭祀(七世紀後半~八世紀前半)
④ 露天祭祀(八世紀~一〇世紀初頭)
  
岩上祭祀は、文字通り岩の上における祭祀で、祭祀者は岩上(の斜面)から玄界灘の東方に向かって拝礼していたようです。これが沖ノ島における最古の宗像祭祀としますと、その拝する方向からいえば、太陽神を招く祭祀のようにもみえます。

コメント: 東方向のヤマト朝廷(3世紀以前では邪馬台国)を拝礼した。ここが女王国であった(参考)。また、沖ノ島は高天原でもあった

また、わたしが別に興味深いとおもうのは、「奇妙なことに、四世紀末から五世紀前半期にかけての前方後円墳が、宗像地方に於ては全く知られていない」と指摘されていることです(正木喜三郎『古代・中世宗像の歴史と伝承』岩田書院)。正木氏は「五世紀前半、前方後円墳が見られぬことは、宗像の盟主が大和王権より公認されなかった事情にあったといえよう」と想像しています。ただし、ここで誤解のないように添えておきたいのは、五世紀前半、宗像氏が大和王権と没交渉だったということではない、ということです。沖ノ島の岩上祭祀の出土品の分析から、沖ノ島における国家的祭祀は四世紀後半から開始されていたからです(『宗像大社・古代祭祀の原風景』)。

コメント: 前方後円墳はヤマト朝廷の皇族か、被支配層のトップが築造したが、ヤマト朝廷と対等な山陰地方あたりの国々は前方後円墳を築造しなかった(参考)。

以上からいえるのは、岩上祭祀の時代、宗像氏は大和王権と一線を画すも、しかし、王権からの大神祭祀への奉献品等を中継ぐ存在だったということかもしれません。宗像氏の祭祀、あるいは宗像大神は、大和王権が初期から軽々視できないものでした。

次の岩陰祭祀時代(六世紀~七世紀)については、「出土品は、岩上祭祀の段階に比べれば、格段に豪華になっている」と指摘されます(正木晃、前掲書)。祭祀場が岩上から岩の陰に設定されるという変化は、岩そのものを神の依代とみなすという祭祀変化かもしれません。この岩陰祭祀時代の後半には、先にふれた古代史最大の海戦(→百済滅亡)の時間が含まれていますが、出土遺物については、次のような特徴がみられるとされます。
  
これまでになかった物品としては、黄金製指輪をはじめ、金銅製馬具類(金銅製棘葉形杏葉[きょくようがたぎょうよう]・歩揺付雲珠[ほようつきうず]・金銅製帯金具)、鉄製馬具類(鉄製鞍金具)、金象眼付鞍金具、鋳造鉄斧などが姿を見せはじめる。これらの豪華な物品の多くは古新羅[こしらぎ]時代(朝鮮半島を統一する以前の新羅)の古墳から出土する作例とひじょうによく似ているところから、新羅からの舶載品とみなされている。
  
古新羅時代とは三韓時代をいいますが、高句麗・百済ではなく「新羅からの(豪華な)舶載品」が多く検出されていることが大きな特徴のようです。六世紀から七世紀中葉にかけて、沖ノ島の宗像神の祭祀を新羅も重視していただろう傾向が、ここに顕著にみられるといえます。これは、宗像氏と新羅との友好的な交流関係を物語るものではないかとわたしなどは考えますが、そうではないという考えもあるようです。

継体天皇二十二年(五二八)、筑紫国造磐井が火国(のちの肥前・肥後国)と豊国(のちの豊前・豊後国)に拠って大和王権に叛旗をひるがえします。磐井が新羅と友好的な関係をもっていたらしいことは書紀も記すところですが、問題は、宗像神あるいは宗像氏と新羅との関係です。『宗像大社・古代祭祀の原風景』は、次のように述べています。
  
国内では、従来の王朝とはいささか系統の異なる可能性がある継体王朝が成立(五〇七年)。次いで、失地回復をはかって、朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野[おうみのけな]率いる大和政権軍を、筑紫君磐井がはばみ、戦闘状態になるという「磐井の乱」が勃発した。

なぜ、磐井の乱が起こったのか、をめぐっては、新羅からの賄賂という説をはじめ、朝鮮半島南部における利権抗争説など、古来いろいろの見解がある。その当否はともかく、舞台が九州だったことから、宗像氏にも大きな影響をあたえたにちがいない。

しかし、原因がどのようなものであったにせよ、宗像氏が一貫して大和政権との関係を重視したことはまちがいない。結果的に、磐井の乱は、宗像氏の地位を、向上させることはあっても、その逆はけっしてなかった。絆はますます強化されたのである。

コメント: 宗像氏はヤマト朝廷を裏から支える一族であり、祭祀する宗像三女神は天照大神の荒御魂と同一神であった(参考)。
  
磐井の乱は、結果として、宗像氏と大和王権との関係を強化したという断定がなされています。そのように断じる根拠が明白に語られているわけではないのですが、筑紫国・火国・豊国にまたがって展開された磐井の蜂起に、筑紫国内にいる宗像氏が一人大和王権側に加担したというのはありうるだろうかという疑問はぬぐえません。ましてや、宗像神あるいは宗像氏と新羅は、もともと友好的な関係にあった可能性が高いですから、引用の断定説には首肯できないものがあります。『古代・中世宗像の歴史と伝承』の説も読んでみます。

宗像と新羅との関係は密接である。それは、宗像大神を新羅からの渡来神とされる素戔嗚尊の御子とする伝承からも窺える。沖ノ島神宝のうち岩蔭遺跡遺物の金銅製馬具・金製指輪・鋳造鉄斧も、新羅製としてほぼあやまりないものと指摘されている。宗像市相原古墳群二号墳からは新羅土器が出土している。体部片であるが、沈線で区画された中に、スタンプ円文やコンパスによる弧文などが描かれた新羅統一時代様式といわれている。
  
新羅が友好的な関係域としているのは、なにも宗像地方に限られるものではなく、香春から宇佐地方にかけてもいえることで、あるいは日本海沿岸や九州全域に及んでいるとさえ考えられます。『三国史記』の建国神話を読みますと、高句麗・百済が北方の扶余族の建国であるのに比して、新羅の建国は、もともと海人族のそれによるもののようです。宗像氏や宇佐氏といった海人族が、その根(ルーツ)を共有している新羅と親近関係をもつのは、親百済の大和王権との服属関係を生きるも、つまり、面従腹背を生きるも、親新羅の関係感情は根強いものがあったのではないかとも想像されます。

コメント: 豊前国の宇佐神宮を祀る宇佐氏は宗像氏の一族であるが、辛島氏や大神氏は海人族では無い!秦氏系の渡来人であり、豊前国あたりから東方向はヤマト朝廷と同族の秦氏系であった。従来からの渡来人(秦氏系)などは、任那、新羅などから、安曇氏、住吉氏、宗像氏など海人族に助けられて渡来してきた(参考)基本的に新羅や百済との敵対関係は無く、最終的に百済が滅び、百済からの亡命者すなわち渡来人を引き受けたに過ぎない!

半岩陰祭祀・半露天祭祀(七世紀後半~八世紀前半)では、新羅からの舶載品(豪華な奉献品)がまったくみられなくなります。この極端な変質が何を語るのかを考えますと、やはり、白村江の海戦と百済滅亡は大きな契機となっただろうことは否めません。また、敗戦後、大和王権が律令国家へと脱皮する過程で、その祭祀思想を大きく変質化させてゆくことも要因として指摘できるかもしれません。

大和王権の祭祀思想は、象徴的にいえば、壬申の乱(六七二年)までは地方豪族の祭祀に干渉することなく、一定以上認めるといった距離の取り方をしていたようです。

コメント: 祭祀の簡略化は古墳の築造を止めた646年の大化改新の一貫であろう!

斉明天皇元年(六五五)前後とおもわれますが、胸形徳善の女尼子娘[あまごのいらつめ]が大海人皇子(のちの天武天皇)の妃となり、高市皇子を生みます。若き高市皇子が壬申の乱で活躍する姿は書紀がよく描くところですが、同じく海人族の尾張氏の加勢があって天武側は乱の勝利を得ます。持統天皇時代、高市皇子は太政大臣にまでなり、こういった事実関係から、宗像氏が朝廷権力に対して大きな力をもつようになったと解釈する説は根強いです。しかし、高市皇子が天皇位に就く可能性は最初から封じられていたといってよく(吉野の盟約)、もし彼がそれを望むような動きを少しでもみせたならば、おそらくは大津皇子と同じ処断の運命が待っていたことでしょう。高市皇子の子・長屋王に、その悲劇は持ち越されたといえるかもしれません。

コメント: 宗像氏の貢献から見れば、天皇との婚姻は当然であった。後の悲劇との関連は考え過ぎです。

歴代天皇のなかで、新羅との関係(修復)を重視した例外的な天皇が天武でした。壬申の乱のとき、多くの海人族が天武側に加担する心性はありえたはずで、問題は、天武天皇が、皇后(のちの持統天皇)とともに乱後の国家構想を具体化してゆくなかで、海人族が暗黙に期待していただろう神まつりを裏切る方向へ舵を切ったことでしょうか。天武亡きあと、大和王権はまた新羅を不倶戴天の怨敵国とみなすことで、国内(朝廷内)統一を図る方向へ歩み出します。亡国百済の高官・遺民を多く受け容れていた大和王権が、その後「国史」を編纂するにあたって、皇祖神の創作(万世一系の仮構)と神功皇后の新羅征討譚を仮構することで、何を果たそうとしたかは、かなり暗い情念に満ちたものという指摘もできそうです。

コメント: 考え過ぎ!記紀は亡命してきた百済人が編集した(参考)!この時、新羅を悪く書いたかもしれない!基本的には、唐国に滅ぼされた百済人は助けたく、唐国への防波堤として新羅は大切であり、ヤマト朝廷は相当苦労している。後の高句麗が滅びたら、高句麗の遺民を受け入れて関東に入植させている(参考)。

ところで、半岩陰祭祀・半露天祭祀には、二つの対極的な遺跡が確認されています。一つは「超一級の宝物を捧げた五号遺跡」、もう一つは「小規模で質素な二〇号遺跡」です。「ほぼ同じ時期の祭祀遺跡でありながら、二〇号遺跡と五号遺跡の極端なまでの落差は、いったいなにを意味するのだろうか」という疑問は当然です。『宗像大社・古代祭祀の原風景』は、「質素な品々しか奉献できない航海があった」と、航海の重要度のちがいを想定していますが、わたしの考えは別にあります。七世紀後半から八世紀前半という時代には、神宮祭祀の立ち上げを淵源とする、各地の神まつりの変質化(の強制)がはじまります。宗像祭祀も例外でなかったはずで、中央の祭祀意向を受容した位相と、古来の祭祀に固執した位相の二重祭祀が営まれていた結果が、「極端なまでの落差」をもつ二つの祭祀に反映しているとみます。

最終期の露天祭祀(八世紀~一〇世紀初頭)からの検出遺物には、前祭祀にみられた中国からの舶載品も確認できず、「大量の国産奉献品で埋め尽くされた一号遺跡」といわれるように、中央の祭祀意向が強く反映しています。前掲書は、遣唐使の航海守護に加え、その「祭祀の目的が新羅の海賊対策にあったことはまず確実だろう」と推定しています。宗像大神の神威が朝廷側に向くことがなくなるという神威変質を前提にするならば、朝廷が大神に「新羅の海賊対策」を願う意向はたしかに成立しましょう。ただし、朝廷が、「正史」の非記載を無視し、宗像大神による神功皇后の新羅征討(外敵制圧)への加護を初めて内々に認めるのは貞観十二年(八七〇)のことで、ここでいわれる「新羅の海賊対策」への祈願は、それ以後のことだろうとおもいます。

宗像大神が、書紀が記すところの新羅征討譚にまったく登場することのなかった事実と、沖ノ島の祭祀遺跡の検出物の変遷、そして、白村江の海戦時の大神の沈黙、さらに貞観十二年の「宣命」等を総合しますと、宗像大神と新羅との関係の深さは、まだ底が洗われていないという印象が残ります。

コメント: 宗像大神の役割は現在に至るまで大きかった、天照大神の高天原は宗像大社の沖ノ島であり、その功績により、現在まで祭祀が続いている。宗像大神の活躍はヤマト朝廷と表裏一体であり、活躍を正直に記紀に書くことは、ヤマト朝廷の内情を唐国など夷狄に暴露してしまうからである(参考)!