下関市大字室津下の室津湊は白村江の敗戦後の百済遺民の受け入れ窓口港の一つであった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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白村江の敗戦後の百済遺民の引き受けの窓口港と思われる下関市大字室津下の室津湊の甲山古墳群の出土品に、百済遺民がもたらしたと思しき7世紀から8世紀の朝鮮半島の品々が出土していた。

下関市の安岡あたりが百済遺民を受け入れた地域であったが、受け入れの港としては下関市大字吉母や大字室津下の湊であった。これらの湊には神功皇后の三韓征伐伝説や長門城に関わる地であった。

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1 室津湊、2 吉母湊、3 長門城、4 安岡


受け入れ港の室津湊や吉母湊は地理的に渡来人たちの上陸に適した地形を有しており、白村江の敗戦後の百済遺民の受け入れの前から、当然、数世紀に渡って継続して多くの渡来人たちを受け入れていたと思われる。


参考

下関市大字室津下の甲山古墳群を研究すると歴史が変わるくらいの成果が期待出来る。豊浦町史 昭和54年12月 P100 ~ 104に以下の記述があった。

室津)湊周辺の心光寺古墳よりは新羅の須恵器、蓋付の椀2点が出土している。統一新羅以後のものであろうといわれている。また、甲山群集墳中から、青磁の皿様のものが出土した。 完成品ではないから正確な器種はいえないが、宋の青磁で、しかも南の方の福建の海岸寄りの窯のもの推測されるものである。 多くの古墳中、たまたま破壊された古墳の清掃の際、発見されたものの中でさえ、このような出土物がみられるのである。 現在はほとんどが盗掘りを受けているが、その昔にあっては、かなりの質と量が内蔵されていたのではないかと思われる。さらに、古い時代のものでは、大門古墳の近傍の水田より、漢鏡破片や金の耳飾りが採集されている。また、甲山群集墳より丹(に) が出たという話を、しばしば耳にする。

 延喜式内蔵察式に「長門国胡粉廿斥緑青二十斤丹(に)六十斥右長門国交易所進」 とある。他の国への丹の割合はあまりなく、あったとしてもほんの2~3斤に過ぎないのに、長門国にだけ60斤とあるのはなぜか。 丹の原料の埋蔵地であったとは思えない。 特に、この場合「交易の進めるところ」 と注釈が書かれているところは注目される。 この交易相手が国内であれば、その相手国の筑紫とか、豊前とかにもそれぞれ課せばよいはずである。 とすると、交易には国外の可能性がある。丹についての話は多い。「子どもの頃、兄たちが吹原の上の畑(甲山の裾部) の底から、出てきた平石の下から壺を拾いだし、海で洗ったら、海がまっ赤になった」(73歳の老女談)。 その壺は、海に捨てられたか、今はないとのことであった。 それに似た話はほかにもある。 この附近には「小判千枚、朱千杯」 という伝承があり、どこかに埋もれているというのである。 朱壺が出たので、また埋めもどしたという昔話もある。「壺が土中より出てきて、海で洗ったら海がまっ赤になった」との故老の話を聞いて、その壺の行方をたずね廻った結果、八ヶ浜より厚母に移られた古吉家に所蔵されている壺に出会うことがかなった。最初の印象からして異国のものである。 土師須恵系統とは別種のものである。 朱を入れる目的の容器で、高台がしっかりとつくられている。ロクロ使用の跡があるが、全体が大まかである。 高さ14.52センチ、胴部13.5センチ、内径73.6センチ、高台部径9.76センチである。

これらの事実をもって、ただちに室津湊における海外交易と結びつけるには問題があるが、少なくともひとつの可能性としては、とりあげることができよう。続日本後紀、承和8年(841) 12月の条に「22日長門国より渤海客徒賀福延等105人来着を報ずる」 とみえる。 渤海国については後述するが、遣使の使命のみでなく、交易もしていたようである。室津湊に土地柄よりこの渤海国との関係を想定することは、無理であろうか。

また、日本後紀、弘仁5年(814) 10月の条に「新羅商人31人長門国豊浦郡に漂着」 とある。 この方には郡名まで記してある。 朝鮮海峡の横断は、かなり対馬海流の影響を受ける。 なお、夏季季節風は南西の風である。 現代の大型機械船時代よりは、想像もしがたい、木造帆船時代の航海である。 大正時代小型帆船で往来していた故老の話によると、こちらから渡る場合は、九州松浦湾あたりまで海岸沿いに下り、そこから出発すると釜山に到着し易い。 逆に釜山を出港して帰る場合は、自然に室津湾の甲山の見える位置にくるということであった。

(室津)湊周辺の古墳が機能していた時代が問題となる。 一般には古墳時代は4世紀より6世紀にあてられているが、とくにこの地域の古墳の終期を6世紀よりもかなり降るとみなすことができるかということである。いま例えていえば、間古墳出土の壺には7世紀に比定されるものがある。さきにあげた心光寺古墳出土の新羅須恵器が統一新羅のものであるとすると、7世紀末以後ということにもなる。 甲山群集墳中より8世紀ごろとみられる壺が出土し、さらにここからは宋の青磁まで出土している。 このような高価な品を、すでに機能を失っている墳中に投げ棄てることはとうてい考えられない。

古墳も横穴式古墳となると、現代の代々墓に近い機能を持つようになり、構築年代と機能年代との間に開きができる。 宋の青磁はいちおう問題外としても、当地域では古墳の機能を早くうち切ると、その後の埋葬形式との間にできる空白がひろがり過ぎる。ともかく、機能としての古墳の時代でも、6・7・8世紀と降るとなると、外征・防衛、さらには交易と、対大陸多事な世紀と重なる。










古墳時代は7世紀中頃の大化改新で終了したが、これ以降も継続する甲山古墳群の7世紀以降の出土品は宗像大社の沖ノ島の状況に似ている


北九州と下関の間の無人島の藍島は古墳時代の古墳のみが存在するが、本土に上陸する前に亡くなられた渡来人たちを葬ったのであろう。








山口県豊浦郡豊北町角島の瀬崎(せざき)、百済王の子孫が角島に漂着し、崎の安寿寧寺に住んだという。