吉田松蔭が最初に調査した北浦海岸 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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吉田松蔭は20歳の時、海防調査に北浦海岸を巡った!日本海にロシアが進出してくることを心配していた藩に求められたものであった!

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このMAPの下関市から長門市の海岸を調査した


参考

嘉永2年(1849)松陰は藩から求められて海防に関する上書『水陸戦略』を提出し、このなかで「わが国は異国に包囲され、そのうち彼らが押し寄せて来ないという保証はない」などと海防の必要性と海陸の戦法が記されています。

こうして外寇御手当御内用掛を任命され6月には北浦海岸の踏査を命じられました。藩ではすでに日本海を渡ってロシアが攻めて来るのではないかと、萩から下関までの海岸線に台場や見張所などを設けていましたが、松陰に巡ってきたのが、萩から下関まで北浦沿岸の外国船対策、同年7月の視察旅行、松陰20歳の時でした(
参考1参考2参考3)。