15世紀初頭までは、このルートは秘されて鎖国状態であり、大内氏が密貿易として初めて朝鮮と交易を始めたと考えられる。13世紀末の元寇の侵攻ルート、13世紀まであった日宋貿易、7世紀初めの遣隋使の小野妹子が裴世清を連れての帰国の案内が隋書に記述されているが、魏志倭人伝以来の通常ルートである博多・壱岐・対馬を辿ったものである。航海技術が向上した江戸時代の朝鮮通信使も通常ルートであった。
参考
① 朝鮮半島から日本列島へ向かう窓口、下関市豊北町肥中(ひじゅう、参考)
大内氏の対鮮交易の基地として整備された肥中浦は、李氏朝鮮側の資料に赤間(あかま)関(下関港)とならぶ長門地域の重要な港として「長州寶重(ほうじゅう)関」の名前で記載されている。
寶重浦の項には「筑前博多を指す」と注記されたものがあるので、あるいはこの時代、半島東南部の港を出た朝鮮の船は、先ず最短の肥中浦に寄航し、ここから目的地の博多へ向かう航路があった。
肥中港を扼す位置に角島(つのしま)がある。響灘(ひびきなだ)から周防灘(すおうなだ)に至る内海航路、大津北浦の海から東へ向かう日本海ルート、そして九州沿岸、朝鮮半島、中国大陸方面へと伸びていく玄界灘や対馬海峡東水道の船路を結節する大津の海きっての要衝だ。
この角島が、大内時代大寧寺の所領に組み入れられていた。毛利時代の初期になると、肥中浦や角島などの要地を管轄する阿川毛利(あがわもうり)家の菩提寺として阿川の浦に大寧寺の末寺海(かい)翁寺(おうじ)が設置された。この角島・肥中地域を基点として東アジアの海に至るスケールの大きな海の回廊を整備していく事業に、大内一族(鷲ノ頭氏をふくむ。)が、大寧寺の本寺―末寺システムを運用した可能性はかなり高い。
日本海、周防灘、および玄界灘の三航路が結びつく西日本最先端の海の要衝に角島がある。毛利藩時代に収録された行政資料『地下上申(じげじょうしん)』に拠れば、この島は大内時代大寧寺の所領だった。寺側に明瞭な資料は残っていないが、おそらくは大内家瓦解後一気にその政治版図を相続した毛利家は、七州の太守大内義隆の所領 を上回る「八ヶ国時代」(1557年から関が原で敗れる1600年までの毛利黄金時代)に、毛利の客員海軍である村上氏が大津の海一帯の沿岸部に所領を与えられ ており、この時期に角島の管理権も大寧寺から毛利の支配下に移されたものと思われる。海上貿易とその警備を主務とする村上水軍七家の大津北浦地域転封は、大内一族の築いた海上権の保護が、とりもなおさず毛利家の富の源泉でもあった事実を想定させる。
この時代、深川庄に立地する大寧寺は、三隅の小島港、油谷湾の大浦港、また瀬戸内海からは、小野田の有帆港、対岸の中津港近辺に有力な末寺を設立し、角島を経由して北九州の要港芦屋、壱岐の南港郷ノ浦、同じく東港芦辺浦、対馬の厳原港、五島の福江島及び宇久島を(倭寇の出撃基地)中心に末寺、孫末寺のシフトを展開していた。対馬厳原の大寧寺末寺国分寺にいたっては、江戸時代中期の資料で、あの手狭な島内の津々浦々に実に131ヶ寺もの 又末寺を支配していたのである。
注: 阿川毛利家(あがわもうりけ)は、毛利氏の一門、家老のひとつ。現在の山口県下関市豊北町阿川・滝部を知行していた。禄高7391石、家臣185人を抱えていた。辺境の地でありながら多くの家臣を養えたのは、北前船と対朝鮮半島交易(密貿易)で藩を支えたのであろう!
注: 大寧寺(たいねいじ)は山口県長門市深川湯本にある曹洞宗寺院である。1410年(応永17年)に大内氏一族で長門国深川(ふかわ)城主の鷲頭弘忠(わしずひろただ)が石屋真梁(せきおくしんりょう)を開山に招聘して城内に創建したと伝える。当初の寺号は康福寺。以降、長門の中心寺院として栄える。
② 幕末の対馬藩と長州藩(参考)
ロシア軍艦の来冠、文久元年(1861年)2月、浅茅湾内の尾崎浦に見慣れない大型の異国船が入ってきました。この船はロシアの軍艦ボサードニク号で乗員360人が乗り込み函館より長崎へ回航の途中船体修理のために寄港したとのことでした。そして芋崎を占領して立ち去ろうとせず、ついに大船越番所で制止しようとした番人を射殺する事件がおこりました。対馬藩はじめ幕府もその解決に頭を悩ましましたが、イギリスの介入で8月にロシアの軍艦は函館に向かって出航したそうです。
文久2年(1862年)対馬藩は長州藩と勤皇運動に対する共同戦線の盟約を結びました。また、元治元年(1864年)2月、時の藩主義達が時勢に対処するため『日新館』という藩校を設立し200人にもおよぶ入学者に尊皇攘夷教育を実地しました。しかし同年10月、藩主の外威、勝井五八郎がこれを粛清、その際血祭りにあげられたものは2百数十人にも及んだそうです。
対馬海流を活用した航路を考えた場合、朝鮮半島や対馬から日本列島への方向は、山口県の北浦海岸を目指すのが合理的であることを示している。
お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。
氏貞は1586年(天正14年)に42歳でこの世を去ります。氏貞には男子の後継ぎがいなかったので、宗像家は氏貞をもって絶えてしまいます。氏貞の墓は、上八に今もあります。
対馬暖流は黒潮に比べると、流量で約1/10、流速で約1/4の弱い流れで、黒潮のように連続した流路を形成することは稀ですが、 対馬暖流が流入・出する対馬海峡や津軽海峡に近い海域では、比較的安定した流路をとっています。
100m深における2、5、8、11月の月平均水温(1985~2010年の平均)の分布(図1)において、 水温の水平勾配が大きく等温線の間隔が狭くなっているところには、等温線に沿って水温が高い側を右にみる方向の流れが存在し、 等温線の間隔が狭いほど強い流れとなります。 対馬海峡から隠岐諸島に至る海域には等温線の間隔が狭くなっているところがあり、 これとは別に、朝鮮半島の東側にも等温線の間隔が狭くなっているところがみられ、いずれも対馬暖流の流路に相当すると考えらます。 対馬暖流の流路に相当する部分の水温の水平勾配を季節ごとに比べてみると、8月および11月は2月および5月に比べて大きく明瞭なことから、 対馬暖流の流れは、冬季および春季に比べて夏季および秋季に強いという季節変動をしていることがわかります。
④ 対馬海流の海流図(参考)
色は流れの速さ(単位:1ノット≒0.5m/s、図ではktと表記
⑤ 冬の季節風(2013年12月13日、参考)
冬場は北西からの季節風が安定して追い風となる。
⑥ 神功皇后も三韓征伐からの帰路、下関に直行した
⑦ 長門市油谷町向津久の楊貴妃伝説(参考)
日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のことじゃったげな。向津具半島の岬の西側に唐渡口(とうどぐち)ちゅう所があってな、そこへ空艫舟(うつろぶね)が流れ着いたげな。 舟の中にはな、長い漂流でやつれておられたが、たいそう気品のおありなさる、それはそれは美しい女人が横たわっておられたそうな。
お側の侍女が申すに「このお方は唐の天子、玄宗皇帝(げんそうこうてい)の愛妃楊貴妃と申される。安禄山(あんろくざん)の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないで近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに云うたそうな。
⑧ 弘法大師上陸の伝説の地、下関市金毘羅町(参考)
弘法大師は公式には博多に帰着し、大宰府に滞在しているが、初上陸地は別にあっても可笑しくない!
金毘羅山普応寺(下関市金毘羅町17-1)
191号線を下関から北上して金毘羅という交差点に、現在、曹洞宗普応寺(金毘羅山普応寺)があり、その鎮守が金毘羅大権現と言う仏様です。但し、入り口には鳥居に金毘羅宮とあり、神様としても崇められており神仏習合です。創建は弘法大師がご帰国され、筋ケ浜に上陸された大同元年(西暦806年)です。明治の廃仏毀釈の騒動のおり、毛利家のお寺であったため、そのまま存続しました。ただし、本来の場所は明治期に軍事要塞となり、現在地に遷座しました。国際航路の守り神です。
⑨ 長門市仙崎町の弁天島(参考)
遣唐使の吉備真備(きびのまきび、695年-775年)が創建したと云われている。
10 遣新羅使の万葉歌
『万葉集』第15巻には対馬までの途上で詠われた和歌が多く残されているが、新羅入国後は歌が詠まれず、さらに帰路は播磨に達してようやく5首が記録されいるにすぎない。
任務を果たせなかった上に、大使が対馬で亡くなり、さらには副使までが伝染病にかかったとなると、とても帰路は歌を詠むような心境ではなかったのであろうとの説が信じられている(参考)が、帰国ルートはすなわち夷狄の浸入ルートにもなるので、万葉集に載せなかったのが真実である。
遣唐使などでも往きのルートは研究されているが帰国ルートはまったく不明である。
11 肥中街道
大内氏の都、山口から北浦海岸の肥中を結ぶ肥中街道
12 特牛港
肥中港の南隣りは万葉集で歌われた特牛(こっとい)の港であり、古代から牛の輸入港であり、周辺地域と角島は育牛で現在でも有名である。
13 宗像と長門の間柄(参考)
室町時代には、宗像氏は中国地方から北九州にかけて勢力をもった大内氏の家来になり、大内氏から黒川という姓をあたえられました。
1551年(天文20年)に大内義隆が陶晴賢に攻められた時、当時の大宮司宗像氏男が大内義隆とともに自害し、宗像氏の後継ぎをめぐる争いがおこりました。争いに勝った黒川鍋寿丸はやがて大宮司宗像氏貞となります。
氏貞は、山口の毛利氏と大分の大友氏という2つの戦国大名のあいだにあって、宗像の領地を支配していました。1559年(永禄2年)に、氏貞は大友氏にせめこまれ大島や地島にのがれますが、翌年、毛利氏や宗像の人々の協力を得て、大島を出て宗像の領地をうばい返しています。氏貞が宗像の人々にしたわれていたことがわかります。
氏貞は1586年(天正14年)に42歳でこの世を去ります。氏貞には男子の後継ぎがいなかったので、宗像家は氏貞をもって絶えてしまいます。氏貞の墓は、上八に今もあります。
氏貞の男子塩寿丸が早世していたため、宗像氏には嗣子がなかった。九州平定が成ると、筑前は小早川隆景に与えられた。宗像領は没収となり、一族や家臣らは離散。居城の蔦ケ岳城も秀吉の命で破却された。その後、毛利氏の重臣益田元祥の孫・益田元堯が氏貞の養子とされ、氏貞の娘の1人は小早川隆景の重臣草刈重継に嫁ぎ、重継は宗像氏を称した。また三女は毛利輝元家臣の市川与七郎に嫁いだ(wikiより)。
注: 宗像氏の子孫は山口県萩市に現存している模様であり、以下の文書がある(参考)。
14 山口県の北浦海岸の吉見以南に宗像三女神を祀る厳島神社が多くあった。粟野から仙崎、萩あたりにも市杵島姫命が習合した弁財天や厳島神社があった。
17 朝鮮半島への渡海ルートには糸島半島あたりが適していた(参考)