古代、仏様も日本海沿岸を渡って来られた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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仏像にも大陸で製造され、直接、地方のお寺にもたらされたものがあり、北九州、大和経由と言うより、日本海沿岸経由と考えられると言う!


参考

古代仏像のきた道 一 久野 健

朝鮮から日本海沿岸へ 渡来人が持ち込む道も

日本の初期の仏像の原型はどこで生まれ、どのような道をたどってわが国にきたのだろうか。われわれが飛鳥・白鳳時代とよんでいる七世紀の仏像の手本となったのは、いったいここの国の仏像であったろうか。 

この問題は、明治以来たくさんの学者により、研究されてきたテーマであるが、第二次大戦後、再び脚光をあびるようになった。それは戦後、中国および韓国において、多数の新しい仏像が発見され、次第に日本の古代仏像のルーツを考え直す必要を生じたためである。昨年東京国立文化財研究所の主催で行われた国際シンポジウムでも「東アジアの美術交流」をテーマに各国の学者により、この問題が論じられ、また今年の五月には韓国の忠南大学主催のシンポジウムで同じようなテーマで熱心な討論が行われた。その共通点は、いずれも、東アジア全体をながめるという視点から古代朝鮮あるいは日本の初期の仏教美術を見直そうとするこころみであった。 

仏教および仏像が、公式に日本に伝わったのは、六世紀の前半、欽明朝に百済の聖明王が仏像と経典とを大和朝廷におくってきたのに始まる。しかし、これ以前にも、大陸から日本に渡ってきた渡来人たちの間に仏教を信仰するものがいたことは、種々の文献から分かっている。かれらは大陸からもってきた仏像を草庵(そうあん)などに安置し、朝夕礼拝していたに違いない。渡来人と共に大陸から渡ってきた仏像を私は渡来仏と呼んでいる。 

渡来仏の研究も戦後著しく進んだ。従来、法隆寺に伝わりのち帝室御物となり、現在は東京国立博物館の所蔵となっている四十八体仏とよばれる小金銅仏群の中に三体ほど渡来仏が混じっていることは、早くから指摘されていた。そして、戦後各地の仏像の調査が盛んになるにつれ、日本列島の各地から渡来仏と考えられる仏像が発見されるようになった。

その分布は、宮城県から長崎県の対馬に及んでいる。このうち一番北に伝わったものは、三養基限の船形山神社の御神体となっている金銅菩薩立像である。この仏像は、ふだんは船形山の中腹の秘密の場所に埋めてあり、五月一日の例祭の日だけ、掘り出され、拝殿に安置される。一年間土に埋まっていたため仏像は全面に青錆(あおさび)が生じるが、この錆具合によってその年が豊作であるか凶作であるかが占われるといわれている。この菩薩像は、見事な三つの花飾りをもつ宝館を頂き、その花飾りの花蕊(かしん)が、勢いよく前方につき出ているところに特色がある。こうした宝冠の形式は、日本の飛鳥・白鳳時代の仏像には見られないが、中国の北魏時代の菩薩像や百済の古都扶余の寺あとから発掘された菩薩像には、全く同形式の宝冠を頂いた菩薩像が残っている。

中部地方にも渡来仏と考えられる像が二体残っている。一つは、新潟県と長野県の県境に位置する関山神社の御神体となっている金銅菩薩立像である。この像は、火災にあって、両手や天衣の一部がとけてなくなっているが、左右に鰭状(ひれじょう)にひるがえる天衣の形式等は、法隆寺の夢殿観音像に近い。また眉(まゆ)に強く鏨(たがね)の線をいれている点も半島からの渡来仏と考えてもよいのであろう。長野県北安曇郡観松院に伝わる半跏菩薩像も、その見事な宝冠の形式や強い胴のくびれ等から私は、渡来仏と考えている。

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関山神社、中央

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観松院

長野県下には、朝鮮三国時代の一国である高句麗や百済と共通した古墳が残っており、また文献にも、半島からの渡来人がこの地に多く移住し開拓に従事したことが記されている。恐らく関山神社の菩薩像や観松院の半跏菩薩像は、これらの渡来人と共にわが国に伝わってきたものであろう。 

従来仏像の伝来コースとしては、朝鮮半島から北九州をへて大和にはいる道が考えられていたが、これらの渡来仏は、半島から日本海沿岸に直接上陸し、中部地方につたわったものではないだろうか。つまり古代の仏像は、必ずしも大和を経ずに日本海から日本列島の各地にはいってきた第二の道が考えられるわけである。 

くの・たけし 仏教美術研究所長。一九二〇年東京生まれ。文化財保護審議会専門委員。 著書に「法隆寺の彫刻」「平安初期彫刻史の研究」「古代小金銅仏」など。 

昭和五七年(一九八二)九月七日 の新聞記事より