日本海沿岸文化圏、能登半島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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能登半島は日本海沿岸文化圏の支点であった。半島の東は縄文人が卓越し、西は渡来系弥生人、古墳時代渡来人達が主に居住し、海人族が沿岸を往来し、東西を結び付けた!

九州の志賀、山口県の日置と同じ地名も沿岸に見られる!また、琵琶湖西岸に志賀、東岸に能登川があり、渡来人の移動の痕跡が伺える。


参考

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能登半島

富山から東は縄文遺跡、福井から西は弥生遺跡が多いと言われる中で、石川県能登半島は両者が拮抗しているいわば縄文と弥生の接点になっている。遺跡や地名も内浦(半島の東側)は縄文由来、外浦(西側)は弥生由来と大雑把に分けることができる。

ところで、縄文の言葉は、アイヌ語を色濃く反映しており、ちなみに、『能登』の地名の由来も、アイヌ語の「ノッ」で【岬、あご】の意味だそうだ。

能登はかつて日本の表玄関だった。その中心に位置するのが輪島。輪島の由来は「倭島」。古代の大陸人による呼称だと言われている。能登半島が大陸との交易地であったことを物語っている。さまざまな文化が交錯した地であったことは、想像に難くない(
参考)。


七尾市
古代の能登国能登郡の地で、能登国府や国分寺が所在する能登国の中心部であった。さらに遡れば、能登国造が治めた土地である。全長52mの矢田高木森古墳(前方後円墳)や42メートルの矢田丸山古墳(円墳)を盟主とする矢田古墳群は能登臣一族に関わるとされる。対岸の能登島には延喜式内社伊夜比咩神社や全国でも珍しい高句麗式の石室をもつ須曽蝦夷穴古墳がある(wik
iより)。


奥原峠遺跡
和倉温泉西口交差点南側の高台に所在する弥生後半のムラで、大小の竪穴住居が2~3棟を一単位として形成されていた。この奥原峠のムラの竪穴住居からは焼け焦げた多数の炉跡や、鉄製の錐・槍鉋などの製品断片とともに、勾玉の未製品や原石が一緒に見つかったことで、鉄鍛冶と玉作りが同時に行われていたことが明らかにされた。北部九州から日本海沿岸に、いち早く伝来されたことが確認されている鉄鍛冶技術が奥原峠のムラにも伝えられていたのである。この鉄鍛冶によって、より小さい孔が開けられる鉄錐が生産されるようになったことで、玉作りもそれまでの石錐から鉄錐を新たな穿孔具として用いる技術革新がもたらされたのである(参考)。


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気多神社 旧国幣大社
                羽咋市寺家町(能登半島西側)
祭神 大己貴命
例祭 四月三日
神紋 山桜
本殿 流造 二五坪 境内 15000坪
攝末社 九社
宝物 後奈良天皇御宸翰潮満球、正親町天皇綸旨
崇敬者 三万人
神事と芸能 鵜祭(12月16日) 平国祭(3月18日~23日) 蛇ノ目神事(4月3日)
由緒沿革 気多大神宮とも称え奉り、古来能 登国一ノ宮として世に知られている。御祭神 大己貴大神は国土修営のため越の北島より船 で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得 てこの地方の賊徒を平定せられた。
その恩典 を慕いこの地に奉祭したのが本社鎮祭の由緒 である。当社は歴朝の御尊崇極めて厚く、崇神 天皇の御宇社頭御造営、醍醐天皇延喜式には 名神大社に、明治四年国幣中社、大正四年国 幣大社に列格せられた。(神社本庁別表神社)-『神社名鑑』-


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出雲、伯耆、因幡、但馬、丹波、若狭、越(越前、加賀、能登、越中、越後)の文化圏(参考)


「海の文化遺産総合調査プロジェクト」関連の調査が能登半島でおこなわれました(情報提供:金沢大学考古学研究室)調査場所は,能登半島の先端に位置する石川県珠洲市(すずし)です。珠洲市の周辺海域は、これまでに中世の珠洲焼(すずやき)が多数引き揚げられているほか、近世には北前船の遭難記録も多数残っている地域です。その結果、古墳時代から近代と多期にわたる遺物(土器・陶磁器類主体)が多数確認され、海底に遺物が散布している可能性も考えられる状況でした(参考)。


大陸から日本にもたらせたやきものの技術は、それぞれの地で変化し全国に散らばりました。しかし能登半島の先端に位置する珠洲で唯一、新羅・伽耶・須恵器の技法を受け継いだやきものが今でも焼かれています。珠洲焼は平安時代末期から室町時代の終わりにかけて、日本列島の約4分の1を商圏とするほどに栄えました。

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15世紀後半に一旦途絶えてしまいますが、約35年前に復興し今の陶工の手によっていき続いています。

日本海に大きく突き出た半島は、かつて対岸の朝鮮半島との交流の表玄関として、渡来人が行き来していた形跡を様々な場所に遺しています。また北九州から津軽までをつなぐ、海の“日本海幹線”の中継点として、たくさんの人とものが交流していたことも分かっています(参考)。


能登半島では奈良・平安の昔からうるしを産出し、朝廷に納めてきました。長い歴史の中で品質を認められた輪島塗りが、全国に広まるきっかけになったのが、北前船という海の道です。中世の輪島は「親の湊(おやのみなと)」と呼ばれ、日本の代表的な港湾「三津七湊」の一つに数えられる、有数の港でした。輪島塗もここから船積みされ、各地へと渡っていったのです(参考)。

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