海女の広がり、海人族の交流ネットワーク | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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海女の広がり、すなわち分布を見ると、対馬海流、日本海流、千島海流に乗って広がって行った!海女のルーツは朝鮮半島と言うウリジナルもあるが、朝鮮、済州島から対馬島周辺、宗像・鐘崎が発祥と言っても間違いなさそうである。

すなわち、玄界灘・響灘が海女の主な漁場であった!昔、朝鮮半島に任那国があったと言うが、宗像海人族や安曇海人族を含む倭人の生活圏であったと想像される(参考)。

漁村に必ず目にする恵比寿神社、蛭子神社が海人族安曇氏の氏神であり、また宗像大社を分祀した神社、厳島神社の分布など、海人族の進出の広がりを示唆する。さらに海人族の広がりを外れ、瀬戸内海から琵琶湖、伊勢志摩あたりまでつながる。安曇氏、宗像氏に渡海を助けられた渡来人の分布を反映していると暗示される(参考)。


参考

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弥生時代の北前船の航路と同様、北海道あたりまで進出している。海女も同時進行で弥生時代以前からあったかも知れない。ちなみに伊勢志摩の海女達は海人族安曇氏の女である。


①[済州島のあま]
日本の海女のように,女性が潜水漁労に従事する例は,世界でも,隣接する韓国済州島の海女以外にはみられないといわれる。朝鮮史書では《済州風土記》(1629)に〈潜女〉の記載がみられるが,古くは南朝鮮にひろく分布していたらしい。現在は済州島に限られ,約9000人の潜女が操業している。この潜女と日本の海女とは,泳ぎ方,潜水作業の方法や道具など多くの共通点が認められる。違う点は,日本の海女は潜水に際し,サイジとかイソヘコとよぶふんどし様の腰布をつけるが,済州島の潜女は藍色の木綿製水泳着をつける。また,捕採物は畑の肥料にする馬尾草が主であり,食用の海藻類,貝類は副次的で,農耕生活の一環として行われる。このような農耕文化の反映を示す点は,海藻類の採れないとき行う潜水賽神に際し,神房(巫人)が粟を海中に撒布し,それが種となって海藻の芽が出るという信仰にあらわれている。済州島の潜女が日本の海女より優れている点は,冷水温に強く,妊娠・月経中もいとわず,四季にわたって操業し,賃金の安いわりに能率がよい点である。潜女の優れた能力が島外に発揮されたのは,1900年ころからで,北は遼東半島,沿海州方面から,南は対馬をはじめ日本列島各地沿岸に進出した(
参考)。

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韓国に唯一現存する海女らしき女性達の絵、1628~1635年頃(参考)


② 対馬厳原市曲の海女

対馬にもふんどし裸海女の文化が存在しました。対馬・曲の海女ふんどし「ヘコ」は、作業に特化し、極めて先鋭化した舳倉島の「サイジ」より布面積は広く、お尻丸出しのサイジと違い前後の陰部はしっかりと覆い隠されています。

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ヘコは、腰に巻くぶっとい腰縄(ハチコ縄というそうです)に巻きつけるように装着し、その上で腰縄を腰に巻くことで身に付けます。決してヘコ単体で着装することはありません(参考)。

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海女船、曲生活館に展示(参考)、古代から帆船はあった


山下任由(たかゆき)- 長崎県対馬市厳原町豆酘

【かつぎ漁(潜水漁)】(In dive fishing)(参考)


対馬では、曲(まがり)地区に女性の海女がいる他は、海士(かいし)と呼ばれる男性がかつぎを行う。漁期は3~9月の約半年間で、9~16時までの操業規制がある。かつては鮑も多く獲れた磯場だが、磯焼けが進行しサザエが主な水揚げとなっている。一日平均60~80kg、多いときには100kgの水揚げもある。

豆酘の山下さんは、この地区でもトップクラスの水揚げを誇る海士であり、母校である東京海洋大学が縁で知り合った。5mmのウェットスーツに度付きレンズが圧着された特注の水中眼鏡を装着し、9時半に神崎を望む浅藻沖で操業を開始した。一度大きく息を吸い込み大きく吐く、更に大きく吸い込むと、ゆっくりとアンカーで海底に固定されたロープを手繰り潜っていく。海底では迷う事なく水平移動し、両手に挟み込まれた大粒のサザエは多いときで8個、あっという間に網かごがサザエで溢れる。平均潜水時間は1分15秒、無駄のない一定のペースで漁を繰り返す。

全国でもトップクラスの実力をもつ対馬の海士達はかつて全国各地へ出稼ぎし、20~30mもの深場にも潜っていた。海女さんが注目を浴びるが、世界的にみても海女がいるのは日本や韓国とごく限られており、圧倒的に海士と呼ばれる屈強な男達の世界である。日本では沖縄の追い込み漁等を除き、一般的にスクーバを使用しての漁は禁止されている。伝統的な潜水漁法や厳密な漁期の設定は、乱獲を防ぎ資源を守る役割を果たしている。



③ 玄界灘に浮かぶ壱岐島(いきのしま)は博多から70キロ。この海に面した壱岐、そして松浦半島など九州北西部、五島列島には、同じような生活スタイルをもった海人(あま)族という人たちがかつて暮らしていた。

3世紀後半の中国の史書『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にその暮らしぶりが記されている。彼らは「好んで、漁鰒(ぎょふく)を捕らえ、水に深浅となく(深い浅いにかかわらず)、皆沈没して(もぐって)之を捕る ……… 倭の水人は好んで沈没魚蛤(ぎょこう)を捕らえ、文身(いれずみ)をし、またもって大魚、水禽を厭(はら)う」これは、魏の使者が朝鮮を通って、対馬、壱岐を経由し、松浦半島にやって来る間に実際に見た光景だろう。壱岐島の東部・八幡(やわた)地区では今も海女が、古(いにしえ)の海人族からの伝統の潜水漁を営んでいる。しかも、レオタードを着て潜るのだという(参考)。

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④ かつて鐘崎の海女は、日本海はむろん壱岐、対馬、五島、朝鮮半島の南部にまで雄飛した。海女家族ははじめ小船で大海を渡り、寝泊りをしながら壱岐・対馬、朝鮮半島や本州沿岸で季節労働に従事していたが、やがて壱岐・対馬や日本海沿岸の各所に枝村をつくり定住する者もいた。北陸に足跡を刻んだ海女家族は、能登の輪島に枝村をつくり、舳倉島の入漁権を得たのである。以来、300年ほどにもなるという。

もともと潜水技術に優れていた鐘崎の海女は、今から700年ほど前、対馬の守護代宗氏が鐘が崎を領有していた縁から対馬で漁業権を得て、アワビを捕り干しアワビにして、フカひれや干しナマコとともに俵物として中国へ輸出し換金した。家船で朝鮮半島に出かけた海女家族は、あまり魚を食べる習慣がなかった朝鮮の人々に漁獲法や料理法を教えたという。男はクジラを捕り、海女家族はやがて厳原近くの曲に枝村を営むようになる。壱岐の小崎、大浦(山口)、輪島などもそうした季節労働からやがて枝村ができたところである。

鐘崎海女は日本の海女の発祥地とされ、潜水技術は九州一とたたえられた。潜水技術は韓国の済州島から伝えられたという伝承が鐘崎にある。済州島の海女もまた対馬、志摩、北海道に雄飛した人々であった(
参考)。

実は伊勢志摩の海女は海人族安曇氏の女であり、安曇氏が山東半島から朝鮮半島西岸経由で北九州に到達しており、潜水技術も済州島辺りに滞在していた安曇氏の海女から鐘崎の宗像氏の海女に技術が伝承されたと考えるとと腑に落ちる。

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⑤ 舳倉島は海女の島、ルーツは筑前鐘ケ崎(福岡県、鐘崎)から移ってきた海人たち。鐘ヶ崎は日本の海女(海士)の発祥の地と言われていて、700年ほど前は対馬の守護代宗氏の領地、鐘崎の海人はそのつながりから対馬で漁業権を得て潜水漁を行っていたそうだ。

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舳倉島の石積の塔

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対馬の石積の塔

男児の健やかな成長や五穀豊穣を願う伝統行事『ヤクマ祭』の祭祀で使うもの。石積みの塔は太陽を神格化した対馬独自の天道信仰に基づいるそうで、日本の民間信仰を伝える貴重な風習として、国選択無形民俗文化財になっている。以前は対馬各地で行っていた祭礼のようだが、今では、同じ海神神社の氏子である木坂地区と青海地区にのみに残っているとのことだ。以前、能登半島の北にある”舳倉島”で同じような石積みを見たのを思い出した(参考)。