響灘文化 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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弥生時代から玄海灘と響灘で、大きく文化が異なっていたようだ!墓制が特に顕著で石棺墓を採用していた。宗像地方以東、響灘沿岸地域をまとめて響灘文化圏と呼ぶ必要が有りそう!

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北東隅に頭骨・土井ヶ浜タイプとある地域が響灘文化圏、青区域の西北九州タイプが在来の縄文人の居住域

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土井ヶ浜遺跡群

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響灘文化圏(参考)


石棺墓制を採用する響灘文化圏は縄文人との生活文化の連続性が無く、玄海灘文化圏の弥生人の甕棺墓制とは異なっていた。さらに、海の交流ネットワークを通じて西北九州文化圏に石棺墓制を伝えた。この後、古墳時代を築く渡来人秦氏は響灘文化圏から山陰文化圏に属する弥生人の系譜につながる様だ。


参考

① 長門市あたりの弥生時代

昭和27年の長行黒川排水改良工事で出土した紡錘車や、同57年の堀田遺跡(日置上) の発掘で発見された大型蛤刃石斧などが弥生人の生活を物語り、同時期の壺や甕などが雨乞台遺跡(日置上) からも採集されている。

また、同61年には、日置平野の南部の日置中 高畑で、掛淵川が形成した河岸段丘の台地縁辺部から竪穴住居が発見され、北浦地方最初の本格的な弥生遺跡発掘調査につながった。その結果、弥生中期から古墳時代にかけての住居跡10軒と、溝1条、土壙3基などが検出された。最大の竪穴住居は直径10.6メートルの規模をもち、数多くの石器や勾玉などの出土品とともに青銅器の細片が出土し、弥生人のムラの繁栄を今日に伝える。

ここから出土した弥生式土器は、北九州系に山陰系や瀬戸内系のものが混在し、石器の石材に大分県姫島産の黒曜石が見られることと合わせ考えると、高畑の弥生人は各地の社会と密接な交渉をもっていたことが判明する。

(角川日本地名大辞典 35 山口県 オンデマンド版(参考日置町 P1130右 高畑の弥生人)



② 長門市あたりの古墳時代

農耕社会の発展につれ、当町域にも富を掌握する豪族が出現し、長行古墳(日置中) や国常古墳(日置下)が造られた。

雨乞台の山麓部に位置する長行古墳は小型の円墳であったと推定され、内部の箱式石棺からは副葬品として鉄槍が検出されている。また、長行の西端に位置する国常古墳の石棺からは、仿製鏡が発見されたと伝えられるが、須恵器の平瓶1個が現存するのみである。.日置平野の黒川遺跡(日置中)からは、住居に関連した柵状の棒杭列に加えて、祭祀用土師器や土馬などが出土し、注目された。

また、昭和47年と同57年の2度にわたって発掘調査が行われた堀田遺跡(日置上)は、日置平野の北東隅にあって、弥生中期より形成されはじめ、古墳時代末期から奈良期にかけて最盛期を迎えた北浦地方きっての大集落であったと考えられている。おびただしい数の柱穴からは、方形の竪穴住居3軒が確認され、大量の土師器や須恵器に混じって出土した布目瓦や緑釉陶器の破片からは、由緒ある寺院か官衙の存在が想像され、さらに ふいご口と鉱滓の出土は、古代製鉄炉などの工房跡の存在を思わせる。

(角川日本地名大辞典 35 山口県 オンデマンド版(参考) 日置町 P1131 左 長行・国常古墳と黒川・堀田遺跡)

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堀田遺跡について



③ 本州最西端の弥生文化 -響灘と山口・綾羅木郷遺跡-

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写真:石剣 山口県下関市大字綾羅木字岡ほか 綾羅木郷遺跡出土 弥生時代(前期後半~中期初頭)・前3~前2世紀 山口・下関市立考古博物館蔵

九州北西部地方の玄界灘(げんかいなだ)沿岸部は、日本列島で最初に稲作文化を受容した地域で、大陸製青銅器が数多く分布します。一方、響灘(ひびきなだ)と呼ばれる九州北東部地方から山口県の日本海側にも、弥生時代前期に多くの遺跡が形成され、なかでも下関地方は多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)・有柄細形銅剣(ゆうへいほそがたどうけん)などが出土し、朝鮮半島から伝わった大陸製青銅器の主要な分布圏の東限として知られています。

多数の巨大な袋状貯蔵穴で有名な綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡は、さまざまな土器・石器・装身具や食料関係遺物が出土し、前期から中期にかけての典型的な農耕集落遺跡として有名です。

美しい文様の綾羅木郷式土器は、響灘沿岸部から主に山陰地方と瀬戸内海西部地方に分布し、強く張る肩部と貝殻で施された羽状文様(うじょうもんよう)や山形重弧文(やまがたじゅうこもん)などが特徴です。また、韓国・青銅器時代の玉類に類似した勾玉(まがたま)類や各種の信仰関係遺物などをはじめ、日本海側の前期弥生文化に特徴的な土笛(つちぶえ)の出土は、大陸伝来の稲作農耕文化が本州などの東へ伝播するルート上で、綾羅木郷遺跡が交流の拠点的な位置を占めていたことを物語っています。

本特集陳列は平成25年度考古相互貸借事業によるもので、特色ある本州最西端の弥生文化を下関市立考古博物館所蔵の出土品で紹介します(
参考)。

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下関市立考古博物館


遠賀川式土器 おんががわしきどき

弥生(やよい)前期の土器の別称。九州地方から、太平洋沿岸では名古屋、日本海沿岸では京都府丹後(たんご)半島に及ぶ範囲に分布し、運ばれた土器としては以東の地域にも及び、青森県下にまでも達していたことが最近判明している。弥生土器研究の初期、九州地方では文様をもたない土器しか知られていなかったが、福岡県遠賀郡水巻(みずまき)町立屋敷(たてやしき)の遠賀川川床から文様で飾る土器がみいだされた。そして同種の土器が北部九州のみでなく、山陽、近畿に及んでいることを知った小林行雄は、立屋敷遺跡が遠賀川遺跡という別称をもっていたことにちなんで、1932年(昭和7)これを遠賀川土器あるいは遠賀川式土器の名でよび始めた。[佐原 真](コトバンクより)

⑤ 宗像地方の弥生時代文化は、宗像地方の弥生時代遺跡からは玄海灘沿岸地域の甕棺墓制は無く、本州西部の土井ヶ浜遺跡、中の浜遺跡、綾羅木郷遺跡にある様な石棺墓制であった。

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宗像地方以東の石棺墓制

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土井ヶ浜弥生人(響灘沿岸地域弥生人)

石棺墓(せっかんぼ)は、板石を箱状に組み合わせて棺とする墓である。箱式石棺ともいう。石棺墓は弥生時代前期に、支石墓に伴う形で現れた。石棺墓は北部九州(宗像以東)から中国地方西半部まで広がったが、内陸には見られず、海岸地域に集中していた。弥生中期には、北部九州(宗像より西)で甕棺墓が主流となり、石棺墓の分布の中心は中国地方の瀬戸内沿岸となった(wikiより)。


玄海灘文化圏: 玄海灘沿岸地域の板付遺跡、三雲遺跡、吉野ヶ里遺跡などは、響灘文化圏とは異なる文化圏であった。

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玄海灘沿岸地域の甕棺墓制

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北部北九州弥生人(玄海灘沿岸地域弥生人)

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玄海灘沿岸地域の遺跡群

日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習があったことが判っている。その後、弥生時代前期~中期の北部九州において最盛期を迎える。北部九州の中でも福岡平野周辺一帯は、弥生早期から前期前半までは成人が主に木棺に埋葬されていたが、前期後半になると壺棺に代わった。それまでは、小児が甕棺に埋葬されていた。中期後半には長崎県や熊本県の一部まで拡がった(wikiより)。縄文時代の文化と融合したと考えられる。


⑥ 響灘文化は山陰文化圏の一部であった(参考)。この文化圏の中の文化交流、物流は宗像・津屋崎の海人族が担った(参考)。(最近2015.9.7の研究で厳密には安曇氏であった)


⑦ 方言の違いについて

宗像地域の話し言葉のアクセントは、東京アクセントと準東京式アクセントの境界あたりとなっている。

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響灘文化圏は東京アクセント(参考)

また、東を接する北九州地域の方言(北九州弁)とは、「~ちゃ」「~ち」など多くの語句が共通する。北九州との境に位置する遠賀地域では、宗像弁を受けた北九州弁や、北九州弁の影響を受けた宗像弁が多く見受けられる。西を接する福岡地域の方言(博多弁)とは、「~ばい」「~ばってん」などかなりの語句が共通する。福岡との境に位置する糟屋地域では、宗像弁の影響を受けた博多弁や博多弁の影響を受けた宗像弁も多く見受けられる(wikiより)。

すなわち、現在でもチャ・チョルを多用する山口弁に近い北九州弁に近く、響灘文化圏に今だに属していると言える。




⑨ 弥生時代、北九州の玄海灘沿岸諸国と宗像以東が異なっていたことを示しております、宗像あたりが魏志倭人伝が言う女王国の領土であった。