山口県と長崎県対馬の縁 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県と長崎県対馬の縁、明治以降も山口県の漁師が対馬に住み着いている。

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長崎県対馬市厳原町浅藻


参考

終戦まで長年にわたり要塞化され、開発が抑制されていた対馬は、古い民俗や文化の宝庫でした。朝鮮戦争が始まった1950年、民俗学者・宮本常一
らの八学会連合(翌年から九学会連合)による対馬総合調査が行われ、宮本は対馬全島を歩き、古老の話を聞き、古文書を書き写し、写真を撮影しました(参考)

代表作「失われた日本人」に収録されている「梶田富五郎翁」の舞台である厳原町・浅藻(あざも)は、明治初年までほとんど人の住まない土地(天童法師信仰の聖地・八丁郭がある)でしたが、明治10年ごろに大島郡久賀浦(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着き、続いて沖家室島(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着きます。久賀の漁民達は、干潮時に海に潜って海底の岩に縄を結びつけ、満潮時に船の浮力を利用して岩を海底から持ち上げて沖に捨てるという方法で港を整備していきます。1回の干潮・満潮で1つの石を運ぶことしかできず、大波によって捨てた岩が岸に押し寄せたこともあり、それは気の遠くなるような作業でした。その後、浅藻は鯛や鰤の漁港として大きな賑わいを見せることになります。

それから約100年。現在の浅藻は過疎が進み、小学校も廃校となり、静かな漁村に姿を変えています。また、本土と離島の格差に胸を痛めた宮本常一の奔走によって離島振興法が策定され、対馬島内のハード整備は進みましたが(宮本の思いとは裏腹に)、それによって失われた自然環境や歴史的風景も多かったのも事実です(参考)。