明治維新時の対馬藩と長州藩 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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幕末において真っ先に夷狄の脅威にさらされたのは対馬藩でした。これに対応するため直ぐ長州藩と対馬藩は協力しました。京都の長州藩邸の直ぐ近くに対馬藩邸が置かれた。

池田屋事件では、池田屋へ一番早く行った桂小五郎は、まだ同志が集まっていなかった為、近くの対馬藩邸へ行って運良く難を逃れた。

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対馬藩邸から見た高瀬川


参考

露艦来航事件

明治維新前夜の文久元年(1861)、対馬の浅海湾にロシアの軍艦ポサシニカ号がやってきました。故障を修理するためとして、芋崎沖に停泊した同艦から、上陸した乗組員は芋崎に上陸、小屋を建て井戸を掘り長期に滞在する動きに出ました。驚いた対馬藩は、立ち退きを要求するともに、幕府に急報しました。しかし露艦の艦長は対馬を列強の植民地化を阻止するためと唱えるなど藩の要求に従おうとはしませんでした。

その上、露艦乗組員は当時勝手な通行を禁じられていた大船越瀬戸を通過しようとしてこれを阻止しようとする地元民と衝突。松村安五郎という小者が殺され、その責任を感じた瀬戸の役人吉野数之助が自殺に追いやられるという事件にまで発展しました。しかし対馬藩はもとより、幕府にもこの事態に対応する力はありませんでした。事件は、ロシアの日本進出を望まないイギリスの強力な抗議の前に、ついに露艦は対馬をあきらめざるを得ませんでした。
 
当時は、アジア進出を狙う欧米列強にとって、日本の植民地化は大きなねらいでしたが、互いの抜け駆けを警戒する列強の動きが、図らずも三すくみの状態となってあやうく、植民地化を免れている状況であったのです。


対馬の尊王攘夷運動と勝井騒動

維新前夜、露艦来航事件でゆれる対馬藩は、雨森芳洲以来藩内に強かった尊王主義に加え、時の藩主宗義章の夫人が長州藩の出であったことから、文久2年(1862)長州藩との間に対長同盟が結ばれるなど、尊王攘夷運動が大きな高まりを見せていました。

ところが、年来の財政逼迫を幕府の援助で乗り切ろうとしていた藩の重臣たちの一部はこうした動きに大きな不安を募らせていました。中でも当時、肥前田代にいた重臣の勝井五八郎は、藩が倒幕に突き進むことを恐れ、元治元年(1864)手勢を引き連れて対馬に上陸、尊攘派を中心とする反対派の粛清を断行しました。これが甲子事変、いわゆる勝井騒動です。

事件自体は、藩内の権力闘争という側面が強かったのですが、この事件の犠牲者は二百数十人に及び、ために藩は多くの有能の士を失うことになります。そして、尊王攘夷運動は壊滅、維新前後の激動期に対馬が大きく立ち遅れる原因になったといわれています。