壱岐・対馬の産業構造比較的 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

壱岐と対馬の産業構造を比較した。現在の産業構造を元に弥生時代の産業構造を思い浮かべた!

壱岐と対馬の両自治体の人口は同程度であり、共に島内で就業して島外への通勤は無い、自給自足的閉鎖経済となっている。個別に見ると、壱岐は時給自足が出来る島と呼ばれ、第一次産業の農業を主に次いで漁業人口が多い。対馬は農業に向いておらず、漁業以外に目立った産業が無く、建設業、公務など政府に依存した自給自足が出来ない産業構造になっている。

この産業構造は弥生時代あたりまで遡って適用出来そうである。対馬の神社は安曇系が主であり、対馬あたりは先ず安曇海人族が住み着き、その後、宗像海人族が入り込んで漁業を営んだ(参考)!

壱岐は現在と同じく自給自足可能である。しかし、これに対し対馬は水産業以外には目立った産業は無く、当時としては島外、すなわち朝鮮半島などとの交流や本州との交流が考えられる。古代については推測しか出来ないが、幕末の記録には長州、石州、芸州との交流が読み取れる。

{EBE107EF-D272-457F-B5E8-FC1F0F288AC9:01}

さらに、当時の政府、すなわち邪馬台国(大和政権)などとの関係を保った政府系事業を遂行することが考えられる。例えば中国大陸、朝鮮半島との貿易、国際交流、国境警備などが主な仕事とならざるを得ないであろう!江戸時代においては、朝鮮通信使対応や長州藩の対朝鮮密貿易にも協力した。


参考

{3F23B9E1-2CA1-4973-949F-A6CABDE0EC43:01}

{F96F6399-A1C7-4663-95B9-94CBC7F757DC:01}


対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・(参考)。


対馬藩 つしまはん

対馬国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中(ふちゅう)(長崎県対馬市厳原町(いづはらまち))に藩庁を置いた外様(とざま)藩。府中藩、厳原藩ともいう。藩主は宗(そう)氏で、中世以来の守護大名が近世大名に転化した数少ない例。鎖国下の近世日本が正式な国交をもった唯一の独立国李氏(りし)朝鮮との外交貿易業務を、独占的に担った。そのため家格は高く、対馬島は生産力が低く公的には無高(むだか)とされたのにもかかわらず、10万石以上の格とされていた。

領知は対馬島のほか、1595年(文禄4)に薩摩(さつま)に1万石(1599年=慶長4年に肥前(ひぜん)に換地)、1817年(文化14)に肥前、筑前(ちくぜん)、下野(しもつけ)に2万石が加えられたが、前記の格づけは変わらず、実態としても藩財政の過半は朝鮮貿易に依存していた。その性格から、対馬と各領地、および江戸・京都・大坂の蔵屋敷のほか、壱岐勝本(いきかつもと)、博多(はかた)(のちに廃止)、長崎にも蔵屋敷を置き、朝鮮釜山(ふざん)の倭(わ)館には数百名の家臣・商人を常駐させていた。

初期には権力構造や在地支配に中世以来の形態を強く残していたが、1631年(寛永8)の柳川一件(やながわいっけん)(国書改竄(かいざん)事件)後の諸改革によっていちおう近世的な藩に脱皮した。しかし在地の構造にはほとんど変化はなく、小農自立が未熟なままで近代を迎えた。そのため同藩には他藩のような百姓一揆(いっき)は1件もない。17世紀後半は貿易の活況、銀山再開発の成功などで西国一の分限(ぶんげん)といわれたが、18世紀に入ると貿易の不況と銀山の衰退のために財政難に陥り、相次ぐ倹約と幕府の財政援助によっても大勢は変わらず、廃藩時には膨大な藩債を残した。一方、文教政策には早くから着手し、1685年(貞享2)に小学校、1788年(天明8)思文館(しぶんかん)、1864年(元治1)に日新館(にっしんかん)を設置した。

幕末には、1861年(文久1)のロシア軍艦の占拠事件をはじめとする海防問題と、1800年(寛政12)の百余輩(ひゃくよはい)事件、1864年の勝井(かつい)騒動などの内訌(ないこう)が相次いだ。1866年(慶応2)の大政奉還後も明治維新政府から朝鮮外交と貿易を担当することを許され、廃藩までその役割を担った。版籍奉還後、厳原藩と改称、廃藩置県後、厳原県、伊万里(いまり)県、佐賀県を経て、1872年(明治5)に長崎県に編入。

[荒野泰典]『『長崎県史 藩政編』(1963・吉川弘文館)▽泉澄一著『対馬藩の研究』(2002・関西大学出版部)』[参照項目] | 宗氏 | 宗義智 | 対馬 | 対馬国 | 長崎(県) | 柳川一件 | ロシア軍艦対馬占拠事件 | 倭館貿易
(コトバンクより)