邪馬臺国所在地論争は二民族の融合の歴史 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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従来、ほぼ均一に混血した縄文人に、一種類の渡来系弥生人が北部九州に渡来して全国に拡散、さらに朝鮮半島から新たな渡来人が追加的にやって来たと言う一元モデルが標準モデルであったと思われる。さらに、従来の邪馬臺国所在地論争は中国への対外交渉窓口がヤマトか九州かどちらか?の一元モデルであった。

実は、少なくとも渡来系弥生人は二種類あり、この二つの民族の融合の歴史であった。一つは魚介類を主食とする稲作弥生人、もう一つは獣肉他なんでも食べる稲作弥生人であった。この二つの渡来系弥生人の違いを厳密に理解しないと、縄文時代から弥生時代への遷移、古墳時代の始まり(四隅突出墓、前方後円墳、前方後方墳の分化の理解)、古墳時代中期の変化などが理解出来ない。

前者は山東省(斉、魏の根拠地)あたりから本州西岸にたどり着き、後者は江南地域(呉や漢の根拠地)から九州の有明海に上陸して北九州を根拠地にした。二つの民族の闘争と融合が日本の古代史であった。

そうすれば景行天皇、ヤマトタケル命、仲哀天皇と神功皇后らの熊襲征伐、筑紫君磐井の反乱、白村江の戦いにおける謎が理解出来る。また神武天皇の東征にかけた年数、景行天皇の四道将軍の派遣(桃太郎伝説)などもクリアに出来る。これらは皆、呉系弥生人と斉系弥生人(ヤマト政権)の闘争だった。

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ところで、響灘に浮かぶ沖ノ島の世界遺産登録についても、北九州内の二つの文化圏の境目にあり、しっかりした厳密な研究と理解が無いと説明は出来ない!


参考

従来の邪馬臺国の所在地論争の始まりは、

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(wikiより)






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両方の主張は正しい、甕棺墓は北九州の呉系弥生人のもので、呉の鏡、鉄鏃、絹が北九州に出土してもおかしくない。北九州の呉系弥生人が漢の国に朝貢し、本州を支配した斉(魏)系弥生人の後裔であるヤマト政権が邪馬臺国として、魏に朝貢しただけのことである。


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さて箸墓古墳の被葬者問題とは別に、笠井新也説のなかでもう一つの焦点となるのは邪馬台国までの道程記事の解釈です。笠井は「投馬国」出雲説を唱えました。それまで主流であった瀬戸内航路を否定したのです。

この説を、仮に邪馬台国が奈良盆地の東南部であったとしたばあいにはどちらがより蓋然性が高いといえるのか、この点を紀年銘鏡を素材に検討したものが、先の論文の続編として書いた本論です。上図を改めてご確認ください。日本海沿岸航路は幹線でした。対する瀬戸内航路は難所つづきです。このような地理的環境は、そのまま両地帯の考古学的状況に反映されているのです。こうした状況証拠のもとに点検作業をおこなったのです
(参考)。


魏からもらった鏡がヤマトに至る山陰海岸から出土してもおかしくない。