土井ヶ浜弥生人、斉国人、羌族の民は同族であることが証明された | 日本の歴史と日本人のルーツ

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すでに報告したことをつなげて見ました。チベット東部の羌(チャン)族の民の祖先は、斉国人と同じく、うそ偽りは無く土井ヶ浜弥生人(邪馬臺国民の祖先)の祖先でした。そして、西夏文字を作った西夏人も羌(チャン)族であり、すなわち邪馬臺国民の祖先でした。

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秦の始皇帝の時代、1の斉の国は滅んで土井ヶ浜へ、2は羌(チャン)族の現在居住地、3が羌の本拠地、秦も羌も同じチベット系の遊牧民であり、江南の民(稲作の呉系弥生人のルーツ)は被支配民となっていた。


参考

① 山口県下関市豊北町の土井ヶ浜に渡来した斉の民の故地、山東半島、臨淄の遺跡の人骨の形が土井ヶ浜弥生人骨と一致するのみならず同一のミトコンドリアDNAを持っていた。その人骨の一部から白人のDNAが検出された(参考)。


② この斉の国は少数民族遊牧民の羌(チャン)族の祖先がルーツであり、日本人男性のY遺伝子D2をやはり持っている(参考)。Dは中東起源と言われている。

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③ 羌族(チャン)、チベット高原東部(引用)

チベット高原東部の先住民と言われており、その祖先はシュメール人という説もある。古羌族は紀元前5000年から紀元前4000年以前から居たと言われています。古羌族の遺跡と思われるものは、チベット高原東部に見られるカロ遺跡と現在の青海省から甘粛省にかけての地域に見られる馬家窯文化の遺跡がある。羌族はチベット系民族で西アジアの遊牧民族であったと言われており、やがて、中国西部に勢力を伸ばし、後に漢民族として漢水の上流にいる羌族を「南羌族」、現在の青海省にいる羌族を「西羌族(胡人)」と呼ぶようになる。他にも羌族は「タンクート」、「蔵人」、「番子」と呼ばれる。羌族は現在の山西省、陝西省、甘粛省および青海省辺りに分布していたが、中国の殷の時代に山西省を放棄し西へと移住した(殷王朝は狩りと称して羌族を捕え、奴隷とし呪術の生贄にしていた)。

紀元前1046年に中国の周と協力し、殷王朝を滅ぼし、紀元前770年から紀元前476年頃の中国春秋時代には「斉」を名乗る。

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④ Y遺伝子の研究論文(引用)、日本人の多くがD2、羌(チャン)族がD1を持ち同一祖先のDから分岐したことの証明

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以上の論文の表を簡略表示すると下図のとおりとなる。(現代の羌(チャン)族がD1、現代の日本人の多くがD2である。日本のD2の組成は縄文人がD2で、土井ヶ浜へ渡来した斉系弥生人がD2となる)

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⑤ 羌(チャン)族の運命(引用)


「問う。揚の牧地の羌を狩るべきか」

「羌十人を殺し、十牛を殺すべきか」(甲骨文)

 

殷の王は神官であり、神々を祭るために犠牲を捧げました。この儀式で殺されたのは動物や異民族で、甲骨文によく出てくるのは、羌きょう族です。羌は、姜とも書き、「羊+人」、「羊+女」で、「羊を飼う遊牧民」の意味。チベット高原東部、現在の青海省で遊牧をしていた民のようです。

 

殷墟の王墓からは、首を切られて10体ずつ埋葬された羌族の人骨が出土します。殷王は血の儀式のために人間狩りを行っていたのです。アステカ王国と同じです。そういえば、殷の青銅器の文様には、アステカやマヤの彫刻に似たおどろおどろしさがあります。これは偶然でしょうか?

 

殷を倒したのが周。周の歴代国王は羌族の娘を后としていることから、周族と羌族とは同盟関係にあったようです。周の武王が8つの民族に呼びかけ、殷の紂王ちゅうおう打倒の兵を挙げます。

「庸、蜀、羌…の人々よ。汝の戈かをあげ、汝の矛ほこをあげよ!」

 

1000年頃、牧野の戦いで殷は滅亡。羌族は人間狩りの恐怖から解放されました。武王の軍師として勝利に貢献した太公望呂尚たいこうぼうりょしょうは、本名を姜子牙きょうしがといい、羌族の出身。諸侯として山東半島に封じられます。これが斉せいの建国。よって斉を「羌斉」ともいます。この国は春秋時代に春秋五覇の筆頭として栄え、のち秦の始皇帝に滅ぼされるまで、山東に独立国家を維持します。

 

チベット高原に残った羌族は、秦・漢の統一国家に加わらず、そのまま遊牧を続けたようです。次に登場するのが、漢が滅んだあとの動乱時代、魏晋南北朝のときです。

 

晋の内乱(八王の乱)が起こると、モンゴル高原・チベット高原の遊牧民が傭兵として雇われ、中国に移住を始めます。匈奴きょうど・鮮卑せんぴ・羯けつ・氐てい・羌きょうの五民族(五胡)で、氐・羌がチベットの遊牧民です。やがて彼らは漢人の支配を脱し、中国各地に独立政権を建てます(五胡十六国)。

 

羌は氐と激しく争いながら、長安を都とする独立国家(後秦こうしん)を建てます。中国布教の途中で氐によって捕らわれていた僧侶・鳩摩羅什くまらじゅうを解放し、長安での布教を許可したのがこの国です。やがて内紛で衰え、東晋の武将・劉裕に滅ぼされました。

 

隋・唐時代にはおとなしくしていましたが、唐が衰えるとまた元気になり、青海にタングート(党項)王国を建てます。同じチベット系の吐蕃王国に圧迫されて青海から甘粛へ移動し、シルクロードの拠点である敦煌を支配下に起きます。黄巣の乱が起こると、タングート王は唐に援軍を送り、唐の皇帝の姓である「李」姓を与えられ、唐の滅亡後は、宋と契丹の対立をうまく利用して独立を保ちます。

 

1038年、タングート王・李元昊りげんこうは皇帝に即位し、国名を「大夏」と定めました(宋はこれを認めず、「西夏」と呼ぶ)。さらに宋と条約(慶暦の和約)を結び、宋の皇帝の臣下となる代わりに、毎年、銀・絹・茶を受け取るという実利を得ました。また、タングート語を表す西夏文字を制定し、民族意識が高揚します。西夏の繁栄は、チンギス=ハンの侵攻によって突然、終わります(1227)。


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▲ 西夏王墓(寧夏回族自治区の銀川市)

http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/C016.htm

 

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▲ 西夏文字。漢字より難しい。美しいが、どう考えても実用的ではない。

http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/08/

 

青海から南下すれば四川盆地になります。羌族(タングート族)の末裔は、四川盆地に注ぐ岷江みんこう(長江支流)流域の峡谷地帯に移住しました。明・清の時代には抵抗することもなく、部族長が地方長官(土司)に任命され、一定の自治を認められます。一方で、盆地に住む漢民族との混血も進みます。

 

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▲ チャン族の女性たち。トウモロコシの収穫あと。

http://www.gesanmedo.or.jp/uli225.html

 

現在、羌(チャン)族は、四川省北部のアバ・チベット族チャン族自治州、綿陽市北川ほくせん県に多くが居住します。人口はわずか30万人。今回の四川大地震の震源地です。中国政府は、死者・行方不明者8万7千人と発表(5月24日)。民族別の内訳は発表されていませんが、チャン族が壊滅的な打撃を受けたことは、間違いありません。



 雲南省の少数民族、チャン族がルーツであることの独立性した証明



 江南の呉から北九州の吉野ヶ里へ渡来した呉系弥生人はY-DNA「O2b」を持っていた



⑧ 縄文人もD2だった