山東半島の臨淄から本州西端の土井ヶ浜へ渡来した稲作弥生人(斉系弥生人)は海人族の海の幸(魚介類)を蛋白源にする響灘文化を持っていることは既に明らかにした。ここでは海の幸と交換した米を食する海人族について述べる。
彼らは南方のインドシナ半島あたりから中国大陸沿岸を北上した安曇氏と住吉氏であった。彼らは縄文時代には日本列島あたりに到達し居住した。そして、縄文人(中国の遊牧民の羌族や斉系弥生人と同族であった)を日本列島に渡海にも協力していたと想像される。
さらに、山東半島の臨淄あたりの斉国で現地民との間で魚介類と米を交換していた!そして、紀元前300年頃、土井ヶ浜に斉国の現地民(斉系弥生人)を上陸させた。彼ら海人族は記紀に記述されているように斉系弥生人や秦氏(ヤマト朝廷)と一心同体で暮らした。対馬、沖ノ島、響灘のヤマト朝廷の渡海を取り仕切った。4世紀後半からの沖ノ島祭祀が実証している。
海人族にはもう一つの系統があった。阿多隼人の系統、すなわち宗像氏である。日本海流、対馬海流にのって北九州の宗像市鐘崎あたりに住み着き、響灘から玄界灘で潜水漁を得意とした。
ところで、斉国より早く滅亡した、北九州の吉野ヶ里から福岡市、壱岐あたりの呉系弥生人は中国の江南あたりから渡海してきたようだ!彼らも安曇氏に渡海を助けられたが、自分で海や川の魚を獲ったり、鶏や豚など育てたり出来る自給自足・稲作弥生人であった。
参考
wikiの説明を示す。
1が安曇氏と住吉氏であり、2が宗像氏のことである。
山東半島あたりは豊かな漁場ではあったが、戦乱の他に冬季に海面が凍結する厳しい自然環境にあり、日本列島の方が良かった(参考)。
縄文時代に漁撈・稲作をもたらしたのは海人族安曇氏(参考)。