呉・越の弥生人の日本列島内の移動ルート | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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呉が滅びて呉系弥生人(O2b)は北九州から東、濃尾平野あたりまで進出した。その後に滅んだ越系弥生人(O2a)は山陰海岸を通り過ぎて、越の国方面と、丹波、大和、瀬戸内海、紀伊半島方面に拡大した。遅れて、遼寧省の元燕を経由した燕系弥生人(O2b、O3)は、最新の精銅、製鉄技術を持って北九州に上陸し、現地の呉系弥生人と仲良く暮らした。

後を追って、斉系弥生人と秦氏(D2)が山陰(山口県下関から出雲あたり)に上陸して来る(参考赤線)。そして、先住の弥生人たちと争いとなった(参考)。

出雲の荒神谷遺跡から大量の呉越系の銅剣や銅鐸などの銅器が纏まって出土したのは、無意味な祭器を埋納したのであろう!斉や秦は中国では呉や越を滅ぼして支配した歴史があった。


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倭国大乱前、斉系弥生人山陰に渡来する前後、1 青線、呉系弥生人の渡来ルート、2 紫線、越系弥生人の渡来ルート、3 緑線、燕系弥生人の渡来ルート


参考

① 呉、越の滅亡と弥生文化(参考)

呉と越の滅亡で発生したボート・ピープルの移住

どうして華北、満州、朝鮮半島南部ではなく、華中から海路で直接、弥生文化が到来してきたかを考えていくと、呉と越の滅亡で発生したボートピープルの集団が思い浮かぶます。

越のボート・ピープルの到着先は本州

呉が敗れた後、越は呉の領土(江蘇省)へも進出し、前380年には首都を呉の故地に移します。次第に西の楚との争いが強まり、一説では前334年に楚が越を滅ぼした説があり、別の説では前329年に楚の威王が越王・無彊を破った後、越は衰亡していきます。楚の脅威は、越が呉を破った時よりも激しく、大量の越人の逃亡・亡命があったようです。揚子江河口地域の江蘇省と 浙江省の住民は舟で沖に出て、対馬暖流に乗ります。揚子江から南の住民は、南方の諸島か、西南の山岳地帯へと逃れ、百越となります。

北部九州に流れ着いた越族は、呉からのボートピープルに較べて、件数、人数とも多かったこともあり、すでに呉族が定住していた北部九州沿岸地域への上陸を諦め、対馬暖流の流れに乗って日本海を北上するか、関門海峡を抜けて瀬戸内海に入り、東端の淡路島までに達します。その流れは紀伊半島を越えて、伊勢湾に至った可能性もあります。

金属器、家畜の渡来

金属は青銅器と鉄器がほぼ同時期に伝わりますが、青銅器生産技術が発展します。鉄の精錬技術は中国では戦国時代に伝わりますが、一般化するのは前漢時代からです。日本列島に到来した華中の住人は青銅の製造・加工技術は持っていたが、鉄の精錬技術はまだ知らなかったことになります。

家畜は鶏と豚が伝来します。牛や水牛は重すぎて舟には乗せることができなかったのでしょう。ちなみに犬は縄文時代から存在し、猫は奈良時代の伝来です。鵜飼は雲南省などにも存在しますが、日本では海鵜、雲南省では川鵜を使用する違いがあります。

養蚕と絹織物は、布目順朗氏(京都工芸繊維大学名誉教授)の「絹の東伝」を参照にしますと、弥生中期の弥生絹は華中系で、 弥生後期に華中系は駆逐されて、華北・楽浪系になります。弥生前期前半に華中の呉越族が養蚕と絹織物を伝えたことを実証する出土物はまだ出現していませんが、中国での養蚕はすでに前4000年以上も前から存在していたことも考慮しますと、呉越族が華中系の技術を伝えた可能性も充分にあります。


② 和歌山の弥生遺跡

神武天皇が河内からの大和への侵入に、攻めあぐね和歌山沿岸を攻めながら、熊野から八咫烏に導かれ、大和に侵入を成功させます。

これは、和歌山沿岸の弥生人を攻略する説話です。この弥生人は大和の銅鐸文化を育んだ越系弥生人と思わられる。

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③ 稲作弥生人の渡来ルート(参考)。


④ 倭国大乱やその後の争いは、住み分けが不十分で帝国主義もあったためである(参考)。


⑤ 邪馬臺国に統合されるまでの倭国(参考)。


⑥ 渡来人は夫婦揃ってやって来た、南米のラテン系民族のように現地女性を調達していなかった!


⑦ 河内、伊勢志摩あたりは呉系(越系)弥生人をルーツとする武士の故郷(参考)