日本人のルーツとして渡来系弥生人に考察しているが、彼らは古代中国から渡って来た!古代中国から逃げて来たので、古代中国の舟に乗っていたことは間違いない!すなわち、2000年前、邪馬臺国より200年以上前の古代中国船は帆を持ち、自由に航海していた!
渡海を助けたのが海人族の安曇氏などとしても、当時の彼らには国境は無く、中国式の帆船の知識、所有は当然あると考えるべきである。
弥生時代の土器からも、帆を持った船が描かれているる。当時、船で自由に航海出来たことは疑いない!漢書にも東鯷人(邪馬臺国人)が江南(揚子江の南)に往復航海していた記述がある。しかし、遣唐使は当時の航海知識の逆の季節に航海した!そんなに、当時の日本人は馬鹿だったのか?それとも、現在の歴史学者が馬鹿で逆に解釈したのであろうか?
実は朝廷の深い考慮があった!遣唐使が楽に航海出来る季節と航路を選んで遣使すると、隋国や唐国に日本列島の正しい位置と航海方法を教えてしまい、侵略の恐れがあった。その実証として、後世に元寇があったが、正に夏に攻めて来て神風に遭遇して敗退した。当時、こんな素晴らしい知識があった。遣唐使の帰国ルートが明らかで無いのも同じ理由である。
現在の歴史学者、考古学者さん達も再検討が必要ですね! → 重ねて検討したが、弥生時代から帆船があったと断言できる。
参考
① 中国では2000年以上前から帆船を操っていたとか!
② 中国の古代帆船、ジャンク船
中国のジャンク ジャンクというのは、中国や東南アジアなどでつかわれてきた伝統的な木造船だが、形式は、時代や地方によってさまざまである。基本の構造は、太い角材を重ねた横隔壁がもうけられ、外側を厚い板でおおっている。長い舵(かじ)があり、ラグスルという特徴的な帆をもっている。15世紀の初めには、鄭和が数十隻の大型ジャンクをひきいて、7次におよぶ大航海をおこない、東アフリカまで到達している。外洋航海に適したジャンクの構造は、マルコ・ポーロなどからヨーロッパに紹介され、大航海時代を開く要因のひとつになった。中国、東南アジアでは今日でも漁業、小規模の水上輸送にジャンクがつかわれている。
東洋では、中国にジャンクとよばれる帆船が、紀元前2000年ごろにはあったとされている。これは、2本のマストをたてた間に四角の帆をはったものである。ジャンクは進化して、のちに西洋でラグセールとよばれる帆装形式になる。これは、帆にヤードと平行にバッテンという横棒が多数いれてある。この横棒は、補強の役割が第1だが、第2には、帆をはるときに、つねに横幅いっぱいにはれる利点もある。また、風が強く、帆の一部をまきあげる必要があるときは、すばやく操作ができ、修理したり、強風で帆をきりおとす必要から、マストの上にのぼるときは梯子にもなる(参考)。
③ 以下の文章は空海の遣唐使の航海に関する疑問についての小説的科学的考察であるが、当時どうして、航海知識がなかったのであろう?
空海は政庁や観世音寺に足繁く来て役人や渡来僧から唐の情勢や渡海の実際を聴取していたと思われる。この太宰府に来て、船団の誰もが東シナ海での海上遭難を怖がりはじめていた。空海とて恐怖感に似た好奇心が高まるのを抑えられなかった。空海は、少弐に東シナ海の渡海の危険性を率直に聞いた。話の流れで、かつて海に没して帰らなかった大使や随員や留学生の不運まで話が及んだであろう。
空海の当時、遣唐使船の構造にしてもその帆走能力にしても、大型外洋船として東シナ海を渡るのに恐ろしいほど不備であったばかりか、航海に必要な東シナ海の風の向きや潮の流れや天文地理の知識によくよく暗かった。その点ではあるいは空海の方が詳しかったかもしれない。だから空海はそのあたりの実際のことを少弐に確かめたかったにちがいない。少弐は自信なさそうにではあったが、知る範囲のことをすべて語ったであろう。
少弐はまず、夏の東シナ海は海難事故の多いことを役人らしく統計的に語った。東シナ海は、旧暦の4・5月~7・8月(春・夏)には西南の風が吹き、9・10月~1・2月(秋・冬)には反対の北東の風が吹くことでほぼ一定していた。これが東シナ海の海洋気象の定説である。西アジアやヨーロッパから東アジアに来る時は春・夏に吹く西南の風を利用し、東アジアから西アジアやヨーロッパに向う時は秋・冬に吹く北東の風を使った。
唐の時代も、インド洋や東シナ海を渡って中国にくる交易船は夏の西南の風に乗って来た。その船が帰るのは冬の北東の風が吹く時であった。日本と唐土の間の渡海もこの季節風を利用し、渡唐は秋から冬にかけてするのが道理であったが、空海の時代、それを知る人は大宰府のなかにもいなかったのであろう。そのためか、その頃唐に渡るのは夏の時期がえらばれていた。空海の乗った第十六次遣唐使船もまさに夏の逆風の時に東シナ海に浮かび、台風並みの暴風雨にさらされに相違ない。
奈良の大学寮には天文暦を学ぶ科があったが、大宰帥とてそれを専らにした人はいなかったはずで、かえって奈良の大安寺などで渡来人と交わっていた空海の方が博識ではなかったかと思われる。空海は少弐の海難の話に何度もうなずき、東シナ海の渡海が命がけであることを覚悟した。
この時代、当然羅針盤の如きものはなかった。島影もない大海原ではもっぱら天を仰ぎ月や星の位置を目安に方向を決めていたにすぎない。天文星宿のことは船員よりも空海の方が詳しかったかと思われる。空海はついこのあいだまで山林の修行生活を通じ毎日のように天文星宿を観察し、山地での方位を確認していたからである。
宝亀七年(七七六)閏八月、第十四次遣唐使一行の上奏に、
今既ニ秋節ニ入ル、逆風日ニ扇グ。
臣等望ムラクハ、来年夏月ヲ待チ、庶クバ渡海ヲ得ン。(『続日本紀』)
④ 弥生時代から風を利用する帆船はあったようだ(参考)。
⑤ 日本の古代人は馬鹿で帆船を持たなく、航海知識も無く、芸術も稚拙と考えられているが、再考が必要です(参考)。
⑦ 古墳時代の舟形埴輪には帆柱が2本あった
ジャンク船によく似ている!(参考)