東鯷の二十余国について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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東鯷(とうてい)の二十余国の解釈で、台湾あたりと考える学者がいるとか!無知もいいところである。いくら2000年以上前のこととはいえ、カタクチイワシは熱帯の海には生息していません。漁師である安曇氏などの海人族の根拠地(志賀島)を考えれば、場所は動いていないことがわかる。漁師の安曇氏の活動範囲と考えても差し支えない。

今まで考察したイツツヒコ王国(後の邪馬臺国の一部)の他、鯷(カタクチイワシ)が捕れる日本海沿岸諸国を含むのではないか、現代のカタクチイワシの漁場の分布と魚消費分布を見た。すなわち因幡(鳥取県)から若狭あたりまでが追加出来るであろう。

魏志倭人伝にも出てくるが、北九州沿岸も含まれる。日本書紀で神功皇后が穴門の引島(彦島)に到着すると、岡県主の祖の熊鰐が案内し、伊都県主の祖イトテが出迎える話があるが、彼らは海人族安曇氏だった(参考)

対馬も東シナ海と日本海をつなぐ位置にあり、稲作にあまり適しておらず、東鯷の二十余国の一つであった。また朝鮮半島と日本列島の中間にあり、製鉄遺跡もあり鉄資源の流通ルートにもなった(参考)。

朝鮮半島の南部の沿岸は倭人と同一民族がいたと思われるが、東鯷の国々ではなく、北九州に属していた(呉系と燕系の弥生人)と考えた方が自然である。


参考

 あるブログをそのままコピーしました:

中国の史書に倭国が現れたのは、紀元百七年(永初元年)後漢・安帝時代の「後漢書・倭伝(東夷伝)」の下記の記術が初出である。

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」

訳すと、後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武帝賜ふに印綬を以てす。

尚、この「光武帝賜ふ印綬」が、志賀島(しかのしま)出土の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)ではないかとされている。

「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國」

訳すと、会稽(ホイチー/かいけい/中国・浙江省中部辺り)の海外に東鯷(とうてい)の人あり、分かれて二十余国になり、・・・・歳時を以て来たりて献見する。

会稽(かいけい/今の蘇州・上海辺り)郡の海の彼方に、二十余国に分かれて、「東鯷(とうてい)の人が居て、朝献していた」と言う記事である。

この「東鯷(とうてい)の人」が、中国・蘇州から東方を指していると解釈すれば、台湾島を指す事になり、北東を指すのであれば朝鮮半島から日本列島を指す事になる。この文面から、前漢時代に蘇州・会稽(かいけい)の海の先に「東鯷(とうてい)の人の国」が二十余国在った事に成る。

この一文を持って、強引に「この東鯷(とうてい)の人が中国から日本を指していると解釈すれば」とする学者も居るが、「日本を指している」と言う解釈に足りる文面ではない。つまりこの東鯷(とうてい)の二十余国が、朝鮮半島から日本列島に在った倭の国々の事ではないだろうか?

志賀島(しかのしま)の金印・漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は真贋両説在り、意見が分かれる所である。だが、此処で採られた「後漢書・倭伝(東夷伝)」の内容で、広域倭の国論が論証される記載が存在する。

前出の中国の史書「後漢書・倭伝(東夷伝)」に書かれた

後漢・建武中元二年(西暦五十七年)、倭の奴国(わのなのこく)、貢を奉り朝賀す。使人、自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜ふに印綬を以てす。

と、「後漢書・倭伝(東夷伝)」に在る。つまり、「倭の奴国(漢委奴国/かんのわのなのこく)は倭国の極南界なり」は、倭の国々はもっと北界に多く存在する事になり、朝鮮半島がその範囲に含まれる事を意味しているのだ。


② 東鯷人(漢書に記載)が大好きな鯷(カタクチイワシ)の漁場は響灘、玄海灘、黄海あたりでした。現代でも、農家は漁師さんが取ってくる魚を毎日、毎晩食べています(参考)。


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④ 昭和25年頃、イワシの豊漁で豊北町は好景気に沸いたとか!この写真は特牛港でのイワシの陸揚げ作業。

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