対馬から下関、山陰海岸の弥生人の食を研究する。
対馬は稲作農耕が困難であった現代までの歴史があるのに対し、すでに高度な漁業の遺物が出土している。魚介類の大量採取の技術と運搬技術は明らかに有している。高度な漁業技術を持つ専業漁師が弥生時代存在し、山陰海岸全域の農家と交易出来る能力は有している。
東シナ海、対馬海峡、日本海で大量に取れたカタクチイワシなど考古遺物として残りにくい魚介類が当時の食生活に登っていたことも知っておくべきである。さらに、稲作水田への肥料として大量のイワシ類を肥料(田作り)としたことも考えられる(参考)。
これに対し山陰海岸側の考古遺跡は、漁撈と農耕を区別せずに混ぜこぜで報告されているが、鶏と豚など家畜獣骨の遺物が無い(未発見の)稲作農耕文化を示している。
参考
① 下関市立考古博物館の綾羅木郷遺跡の食物遺物(参考)
② 日本海沿岸の弥生遺跡の魚の絵(参考)
青谷上寺地遺跡の出土品を調べると、田んぼを開墾するための鋤や鍬、稲穂を摘み取る石庖丁、狩猟用の鏃、魚を捕らえる銛や釣り針、タモなど、日々の糧を得るための道具が多いことに気づきます。また炭化した米や、シカ、イノシシなどの獣、鳥類、魚類の骨もたくさん見つかっています。
こうしてみると、ご飯に動物や魚のおかずという、現代に近い食卓が想像されます。参考までに大阪府立弥生文化博物館が復元した「卑弥呼の食卓」は次のようなものです。玄米の炊き込みご飯、鯛の塩焼き、ハマグリとイイダコとワカメの吸い物、アワビの焼き物、ショウサイフグの一夜干し、茹でワラビ。女王卑弥呼の食事という設定ですが、豪華なものです(参考)。
④ 対馬の弥生人(海人族)の活動(参考)