日本についての中国の公式歴史書は、方位を除いて皆正しかった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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倭国大乱までは九州の奴国が倭国の代表として、漢や後漢に朝貢していた。同時に東鯷国が漢に朝貢していたが、後漢には朝貢しなかった。倭国大乱後は、邪馬臺国が倭国の代表として魏に朝貢した。隋には邪馬臺国すなわちヤマト政権が倭国として朝貢した。唐の初期にはヤマト政権が倭国として朝貢したが、701年、日本と改名した。


東鯷国は漢、後漢がつけた名前で、本来は邪馬臺国と呼んでも差し支えない。厳密には倭国大乱後が邪馬臺国、倭国大乱前はイツツヒコ王国とほぼ同一と考えても差し支えない。


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倭国大乱前: 東鯷国以外が小国100余りが乱立した倭国、九州の奴国が漢に朝貢、九州の面土国も後漢に朝貢


参考


① 『旧唐書』倭国・日本国(参考)


倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。

 

倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。


その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。

 

其訴訟者、匍匐而前。地多女少男。頗有文字、俗敬佛法。並皆跣足、以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽、百姓皆椎髻、無冠帶。婦人衣純色裙、長腰襦、束髮於後、佩銀花、長八寸、左右各數枝、以明貴賤等級。衣服之制、頗類新羅。

 

そこの訴訟をする者は、這って前に進み出る。その地には女が多く男が少ない。甚だ文字を知り、俗人は佛法を敬う。併せて皆が裸足で、幅広の布でその前後を隠す。貴人は錦の帽子を載せ、百姓は皆が椎髻(?)、冠も帯もない。婦人の衣は鮮やかな色の裙(スカート)、長い腰襦袢、髮を後に束ね、銀製の花を佩びる、長さ八寸、左右に各々数枝、以て貴賎、等級を明らかにする。衣服の制はとても新羅に類似している。

 

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。


貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。


貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。

 

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。


日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


以下省略



② 『新唐書』日本伝(参考)


日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。國無城郛、聯木為柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。置本率一人、檢察諸部。


日本は、古の倭奴なり。京師から一万四千里、新羅の東南にあたり、海中に在る島に暮らしている。東西には五カ月の行程、南北には三カ月の行程。国に城郭はなく、連ねた逆木で柵落と為し、草茨で屋根とする。左右の小島は五十余り、皆、自ら国と呼んでおり、これに臣下が付随している。本率を一人置き、諸部を検察させている。


以下省略



③ 『隋書』倭国伝(参考)

 

倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。


倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。


その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。


以下省略(秦王国について)



④ 邪馬臺国は漁師のおかげで倭国大乱に勝てた



⑤ 倭国大乱前までは、呉系弥生人(+燕系弥生人)と越系弥生人の国々が乱立していた(参考)。



⑥ 渡来系弥生人の渡来ルート一覧(参考)。