塩の流通を握ったものが国家を管理することは邪馬臺国時代より前(東鯷国の時代)から中国の漢が行っていた。このシステムは漢に朝貢していた奴国や東鯷国は国家運営(年貢の取り立て)のイロハとして当然知っていた。当時、藻塩製塩などを行っていた海岸縁の海人族は当然、お魚を100%消費する東鯷国に依存しており(参考)、塩は東鯷国の支配下にあったと言って差し支えない。
北九州の奴国は呉の太白の末裔で鶏などの家畜を食する稲作民族であり、お魚にさほど依存せずに自給自足の生活であった。このため100余国の小国が乱立し、さらに海人とのつながりは東鯷国程にはなかった。
参考
塩は古代も現在も、国家の重要な管理品目のひとつであり、貴重な財源でした。人間生活において必須の調味料であり、その使用量から人口の把握も簡単にできます。また、流通ルートを押さえれば、容易に専売制を敷くことができます。そのため、各時代の政府はこぞってこの結晶を国家の専売項目に入れました。日本でも、最近まで塩の専売制が敷かれていたのは有名です。それが販売も含めて完全に解除されたのは、何と20世紀も終わりに近づいた平成9年になってからです。
中国では、4000年前の「夏(か)」の時代から製塩は行われてきましたが、1世紀の後漢の時代には早くも専売制が始められています。「漢書」でも、「夫(そ)れ塩は百肴(ひゃっこう)の将」と書かれていて、いかに国家がこの結晶を重要視したかがよく分かります(余談ですが、この後に「酒は百薬の長」と続きます)。古代ローマでは、塩を買うのに貨幣が支払われていたそうで、この貨幣のことをサルsal(塩)にちなんでサラリーと呼びました。現在の給与を意味するサラリーsalaryの語源です。
「三國志演義」の英雄として名高い劉備も、もともとは塩商人のボディガードとして出発したと言われています。塩は利益率が高い商品なので、盗賊などに襲われやすく、また国家権力の専売制の圧力もあります。そこで、商人たちは腕に覚えのある猛者どもを集め、輸送の護衛に当たらせました。その中に、劉備や関羽、張飛といった有名な武将たちがいたのです。彼らは「黄巾の乱」以降、義勇兵を率いて戦場に出ることになりますが、その背景には、塩商人たちの強力なバックアップがあったとも言われています。ちなみに、劉備の配下であった関羽は、ボスを守る強力な武将ということで、死後、塩商人たちの間で守護神として崇められ、やがて商売の神「関帝」に昇格します。その関帝を祀ったのが有名な「関帝廟(かんていびょう)」です。今も中華街などを覗くと、真っ赤な顔をした関羽の堂々とした姿が飾られています。この関帝廟は、商人らが華僑として海外に出る時に一緒に持ち出され、今はどの国のどのチャイナ・タウンにも、この建物を見ることができます。
② 塩の道の一例
日本海側と太平洋側の両端を押さえれば、内陸部を支配出来る。越後の上杉謙信と信濃の武田信玄の戦いでも、上杉謙信が塩の流通を止めれば、信濃の民全員を殺すことも可能であった。
白馬(参考)
③ 現代の日本の塩の国家管理
つい最近まで塩は国が生産して、販売していた!
④ 欧州での塩(参考)
中国の例に漏れず、古代ギリシア・ローマでも、塩は重要な品目であり続け、特に古代ローマでは、料理に、あるいは染料で染めるのに、大量の塩が消費されたと言われています。フェニキア人(現在のシリア近辺の住民)も、塩を扱って繁栄しましたし、ガリア人(現在の北東ヨーロッパの原住民)も、塩泉を奪い合って戦いを繰り広げました。
なお、当時の製塩所や塩田は、たいてい僧院や修道院の支配下にあり、彼らの重要な収入源となりました。時代が下がるとともに、その支配権は富裕層や領主などに移りましたが、彼らは高い「塩税」をかけて人々を圧迫したと言います。フランスでは、塩の取り扱いは国家の管理品目となり、「塩税」を支払わない、いわゆる納税義務を果たさない人々が、1780年には厖大な数にのぼり、1万人近い人々が投獄され、4000人近い人が何らかの形で差し押さえを受けています。この、塩税に関する不満がフランス革命の遠因になったとする学者もいるほどです。
⑤ 北九州の博多湾では志賀島の海人が製塩していたと、万葉集にある。