中国の漢、後漢の時代に朝貢した倭国の代表は漢書や後漢書では九州の奴国や面土国の帥升であった(参考)。三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)では、倭国王は邪馬臺国の卑弥呼、男王、台与であった。この間に後漢の滅亡、倭国大乱があった。季節変動か何かで民族間の摩擦が生じ、後漢では全滅に近い人口減少があったとか!西方ではゲルマン民族の大移動もあった(参考)。
倭国に話しを戻して、倭国大乱の後、九州勢力などが負けて邪馬臺国の卑弥呼が倭国の女王に共立された!九州の奴国や面土国の王が倭国の代表の座から降ろされて、邪馬臺国に代表権が移された(呉系から斉系の弥生人へ)のか?
以下、推理するが、九州勢力などと邪馬臺国の違いを一言で言うと、九州勢力などは全てを自力生産出来る小国連合であり、銅剣や鉄剣なども自力生産のできたが、それに対し、九州勢力などより遅れて日本列島にやって来て、豊でない山陰海岸沿岸に建国した邪馬臺国はタンパク源を漁師さんの魚に頼る相互依存体制を元々持っていた!中国の漢は邪馬臺国の前身を東鯷国(ひがしのカタクチイワシのくに、参考)と呼んでいた。
すなわち、邪馬臺国は漁師さんとの相互依存体制の中で、日本列島全体の海岸線を支配出来た。これが大切な要因だった。もし倭国大乱のような争いが起こった場合、漁師さんは邪馬臺国に味方し、九州勢力などを陸地内に封鎖出来た!例えば、生活に不可欠な塩を封鎖でき、九州勢力はある意味、籠城戦となり、大量の武器があっても役に立たなかったのである。
倭国大乱後、九州勢力の銅剣など、そして近畿勢力の銅鐸などを取り上げ、また墓に埋葬させた!出雲の荒神谷遺跡などの銅剣や銅鐸は取り上げたものを埋葬したものであった。
① 古代の塩の歴史について(参考)
前おき
塩は、特にヨーロッパやアメリカには昔から「塩」が岩塩という形で存在して いました。それを「塩」と呼び使ってきたのです。「はじめから塩があったのです。日本には岩塩はなかった。外国に比べて日本では古代から岩塩は手に入らなかったのです。
ではどうしたか?
古代人は海から塩を作ったのです。3千年前の縄文人の遺跡から塩を作った壷やカメが出土しています。日本人は日本人に適した 天然の塩をつくり続けてきたのです。 海そっくりそのまんま塩にできる工夫を続けてきたのです。 食べ物と一体になる事で美味しいものに変化する塩。体がイキイキとする。 塩が足りないと心が暗くなる。・・・・塩を中心にした暮らしが生死を左右する ことを体験的に昔から知ってきたのですネ。”人間は一日に12~15グラムの塩が、生理的にどうしても必要だそうです。 重労働や熱作業に従事する場合は、40~50グラムと摂取量が増してくる。 昔から「米と塩」といわれたように人間が生きるために塩はなくてはならない ものです。世界の道は、最初は、塩を運ぶ道から出来たと言われる程大切だったんですネ。
塩は、どんなものと交換されたのですか?
昔は、山間部では、まき(松の木を適当な長さに切ったもの。)、 なぐり(松の枝おろしをしたものから葉をおとしたもの。) まきはがら(松の枝に葉をつけたもの。)・狩猟民は、イノシシなどの動物を 、内陸の農耕民は彼らが取ったけものや農産物を塩と交換するというふう に物々交換をしたんです。近年では(1600年代)相良でとれた塩・海産物が信州に運ばれ、信州から は、米・麦・タバコなどが又途中の掛川・森周辺からは茶やシイタケが相良 に運ばれ、相良港から全国各地に搬出されたと言うことです。
いつから塩を採り始めたの?
人間にとって大切な塩は、太古より食されていました。 日本で海水から塩を採りはじめたのは、縄文時代後期末(3千年前) までさかのぼると言われます。はじめは、藻塩焼(もしおやき)塩をとる最も原始的な方法・・・海藻を日に干し 焼いてできる塩分を含んだ灰や、干して塩分のついた海藻に海水をかけてこれを土器で煮詰めて塩をつくる。や直煮法(じきにほう)と言って直接小型土器に 濃縮された海水を注いで、煮沸・煎熬(せんごう)し、結晶塩を採る方法で、土器製塩法と呼ばれていたようです。
「万葉集」に海藻を天日乾燥させ何度も海水をかけることで塩の結晶を作ったこ とが載っています。
② 遼寧省あたりから渡来した燕系弥生人なんか鉄器をもたらしたが、何でも食べる呉系弥生人と同族だった。すなわち、塩を除いて独立的自給自足稲作弥生人であった。
③ 呉・越系弥生人は広大な水田を耕作したが、斉系弥生人は水田に不適な山陰海岸で生き抜いた(参考)。