弥生時代の初期の水田は棚田か平地か? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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論文(参考)は弥生時代初期の稲作の始まりについて検討している。興味深いところを紹介し批判する。

① 日本列島の情報を持っていない人が中国大陸から亡命してきても原初水田適地に入植できるとは限らない。その入植適地の情報を持っていたのが安曇族である。なぜ安曇族がその辺の情報を持っていたのか、なぜ入植地を斡旋したのかなどについては拙著「安曇族」に書いたが一言で言うと日本列島の水路を使って交易を盛にやっていたから河川の上流域まで知っていたと言うことである。

→ まさにその通りで、縄文時代から日本列島の周囲で漁業に従事し、縄文人と交易し日本列島の地理を熟知していたと考えられる。

彼らが中国大陸から渡来系弥生人を運ぶと同時に最先端情報もリアルタイムに伝えてくれた(参考)。よく、日本は遅れた文化で中国から文化を摂取したと思われているが、インフラ整備に手間取っただけと思われる。

安曇氏がある意味、弥生時代からの日本の大家さん、または大地主と考えられる(参考)。


② 水田には、弥生時代初期、A.棚田からスタートした説と、B.海岸べりの平地からスタートした説があり、これを比較した。著者はA.を主張しているようで、B.を批判している。

→ しかし、よく考えれば、A.は上流に溜池や湧き水を用意し、下流に向かって水田を広げていく。B.なら広大な湿地に適した稲と作業法を適用する。中国にいた頃の水田と同じ様な場所に移住したはずで、故郷にいた時のノウハウや道具が役に立つ。日本列島の水田と同じ様な風景の場所を故郷の中国に見出すことが出来る。少人数が基本と考えたことについても、集団作業を基本とする民族なら日本列島に渡来しても集団作業することを前提に渡来したと考えるべきである。また、初期に渡来したグループは自分たちに適した場所を確保できるが、後から渡来したグループは選り好みが出来ず。最新の技術(牛馬や鉄器)を武器にすることになろう。

江南出身の呉系弥生人は九州や瀬戸内海を東行し、越系弥生人は福井以東や近畿に入植しているが、江南辺りの広大な水田と良く似た条件の水田を選んだようだ(参考)

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筑後平野

山陰に入植した斉系弥生人は山陰海岸に入植したが、耕作条件には不本意ではあろうが、安曇氏などの海人族の根拠地となる山陰海岸の入江の港町と同居することで、生き抜いた(参考)。

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山陰海岸

中国からインドシナ半島の山岳地に避難した少数民族は棚田をつくったようで、江南からベトナムに逃げた民は広大な水田を耕作した。

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中国南部山岳地の棚田

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ベトナム


③ 山口県北西端の長門市の向津具半島では、地形に合わせて棚田と条里制地割の水田を組み合わせていた(参考)。