弥生時代の日本列島の造成者と入植者の違う例 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

土地開発者と入植者が違うことの例が築後平野の航空写真でよく分かる。

{E74727B8-FC8E-4006-9C76-AF544DE96531:01}
福岡県小郡市の田圃と市街地に着目して欲しい。

水田は条里制地割のデザインであるが、市街地の乱雑さに違いが明らかである。この辺りの水田の圃場整備事業は水路の整備であり、区画は変更して居ない。すなわち、入植者は呉系弥生人系(O2b、O3)である。開発者はもちろん海人族安曇氏(C1)である。想像であるが縄文人(D2)も造成作業などに従事したであろう。


参考

① 農水省による圃場整備事業の影響

筑後平野については、クリーク(水路)の整備が重点であった。条里制地割については、大きな変更は無かった。

{EC22ADE5-4B69-443A-8D00-3E87B7A08B79:01}


② その他の地域についても、古代からの条里制地割の水田については、河川の改修、水路の改修、規模の拡大などであった。


③ 土地所有者は海人族安曇氏であった(参考)。


④ 条里制地割の水田の造成作業は縄文人と海人族安曇氏が共同で行った(参考)。


⑤ 条里制地割の水田のデザインは中国山東半島あたりがルーツである(参考)。


⑥ 呉系弥生人(O2b)の土地開発は汚らしい、彼らの作った水田や宅地は乱雑に並ぶ(参考)。


⑦ 斉系弥生人(D2)又は秦氏(D2)が入植者の場合は調和した条里制地割の土地に街ができる(参考)。