元々、日本の地主は蘇我氏であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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蘇我氏の先祖は海人族の安曇氏であり、縄文時代から日本列島沿岸で漁撈生活をしており、日本列島と周辺海域の所有者と考えても不都合はない!国際情勢は熟知し、当時の最先端技術を持っており、自ら陸上の土地開発も行っていたようだ!

そして、入居者として弥生人達を中国大陸から連れて来た!と理解すると、腑に落ちる!

ところが、呉系弥生人や越系弥生人は自給自足の稲作弥生人であった為に、海人族の安曇氏のお魚を期待した程には消費してくれないので、山陰海岸沿岸に入植した新参のお魚食100%の斉系弥生人と入れ替わってもらう為に倭国大乱が起こってしまった!ハイ!安曇氏は最後の手として塩の供給を絞って戦力を落として、斉系弥生人の勝利となった!


その証拠の実例を紹介する:

① 本州最西端の響灘の海はすべて安曇氏のものであったが、住吉氏や宗像氏に分け与えた(参考)。

岡の県主の祖の熊鰐の館跡だった仲宿八幡宮(北九州市八幡東区祇園)の配祀神に大綿津見命があり、熊鰐は海人族の安曇氏であり、響灘を支配していたと考えられる。神功皇后は、熊鰐から献上された響灘の漁業権などを配下の住吉氏や宗像氏にも分け与え、特に北浦海岸については穴門から吉母までは宗像氏、住吉氏、安曇氏に平等に与え、吉母以北は住吉氏に与え、粟野から向津具半島あたりは宗像氏に与えたと推定される。詳細は響灘、北浦海岸の海人族の分布にある。

住吉大神が神功皇后に対し「穴戸の山田邑に祀れ」と託宣して住吉神社が創建されたと言うことは、神社地と海岸までの延行条里遺跡(弥生時代~)の水田は、元々、住吉氏と同族の安曇氏の所有であったことを示唆する。
 
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中央の綾羅木川の北側に延行条里遺跡(弥生時代)が残っている。


② 琵琶湖の西岸に安曇氏の一族の根拠地と思われる地名、安曇川がある。さらに、大化改新を実施した天智天皇の宮である琵琶湖の西岸の大津宮あたりと、百済国からの遺民が入植する東岸の広大な平野(条里制地割がある水田が今もある)は、645年まで全て安曇氏(蘇我氏)のものだったとすると辻褄が合う(参考)。

蘇我入鹿を殺した乙巳の変(645年)以降、大化改新の名目で取り上げた土地に、白村江の戦いの敗戦後(663年)に百済国からの遺民を入植させた。この時、地名を新たに付け直したが、これが山口県西部の地名『野洲(安岡)、蒲生野、竜王、豊浦、豊田、日野、日野川、中山、大津、近江(淡海、青海)』と一致する(参考1参考2参考3)

日野は全て条里制地割の水田であり(参考)、白村江の戦いの敗戦(663年)後に百済遺民を入植させた土地に滋賀県の日野がある。

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琵琶湖の東岸、蒲生野あたりの条里

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琵琶湖の東岸、竜王あたりの条里

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琵琶湖の東岸、野洲あたりの条里

どうして山口県西部の地名が渡来人の入植地名と一致する必然性があるかと言うと、入植者にとって初めての入植地に名前を付ける場合、初めての上陸地の地名を思いつく可能性は高かろうとの期待からであり、それ以上の根拠は無い。

645年当時、百済国の窮状は分かっており、百済国が滅びた後の遺民を入植させる為の土地を確保する為の陰謀かも知れない!

下関市の豊田、日野は東京都の中央線にもあるが蘇我氏の条里制地割と対応するかどうか興味深い。

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はたして、中央線の豊田駅の日野市内に条里制地割があった。ただし、時代は確認していない。

東京近辺にも新座、高麗とか渡来人の故国の名前らしい地名が有るの有名です。

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埼玉県の日高市内の高麗川駅の周りに条里制地割があった!

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埼玉県の新座市周辺に条里制地割があった!


③ 倭国大乱の舞台である筑後平野や大和盆地の条里制地割も縄文時代から安曇氏(蘇我氏、C1)の所有地だった(参考)ものを呉系弥生人と越系弥生人(O2b)に水田用地として、それぞれ貸し出し、大家である安曇氏が塩と魚を供給したと推定すると興味深い。もちろん、家賃は米で徴収する。

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筑後平野の条里制地割、吉野ヶ里遺跡周辺(倭国大乱の舞台)

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大和盆地の条里制地割、唐子鍵遺跡周辺(倭国大乱の舞台)


④ 弥生時代からの条里制地割の遺跡(参考)


⑤ 越の国、すなわち福井県、石川県、富山県、新潟県に条里制地割があった(参考)。最近の圃場整備事業は水路などであった。


⑥ 農水省による圃場整備事業の影響

筑後平野については、クリーク(水路)の整備が重点であった。条里制地割については、大きな変更は無かった。

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その他の地域についても、古代からの条里制地割の水田については、河川の改修、水路の改修、規模の拡大などであった。


⑦ 九州の伊都国は大家は安曇氏だが、店子は燕系(呉系)弥生人だった(参考)


⑧ 沖ノ島祭祀も元々は海人族安曇氏の仕事(参考)。


⑨ 土地開発と入植者が違っても良い例、筑後国の例示(参考)

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福岡県小郡市の田圃と市街地に着目して欲しい。水田は条里制地割のデザインであるが、市街地の乱雑さに違いが明らかである。この辺りの水田の圃場整備事業は水路の整備であり、区画は変更して居ない。すなわち、入植者は呉系弥生人(O2b)である。


10 千葉県千葉市中央区蘇我町は蘇我氏の土地だった(参考)


11 安曇、志賀、鹿島など安曇氏ゆかりの地(参考)