秦王国の首都は穴門の豊浦宮だった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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「隋書 卷八十一  列傳第四十六 東夷 ダイ國」によれば、ダイ王多利思北孤は大業3年(607年)に第2回遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業2年(608年)、文林郎である裴世清をその答礼使として派遣した。隋使・裴世清に案内役が語ったところによると、竹斯を出て東に秦王国があると説明していた(参考)。関門海峡に入る直前に穴門が丸見えであった。

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東方向を上にしたグーグルマップ、赤色は現代の関門航路であり、潮流から考えるとそんなに違わないと思われる。東に穴門が丸見えでした!

現在の長府(長門国府)が瀬戸内海に移されたのは、白村江の戦いの敗戦(663年)の後、唐の侵攻を恐れた為であろう。

ところで、当時の関門航路を船で抜ける場合、大瀬戸を通らずに彦島と本土の間の小瀬戸を通過する方が自然とは思われる。


参考





③ 秦氏の王、弓月の君の親、功満王が穴門の豊浦宮で仲哀天皇に蚕種を献上した(参考)


④ 応神天皇以来、渡来した秦氏は穴門の豊浦宮を経由して河内国あたり(河内平野)に入植した(秦氏)


⑤ 下関市生野すなわち古代幡生湾あたりも渡来した秦氏の入港地だった(参考)


⑥ 瀬戸内海沿岸の中国地方を移動して河内に到達した(参考)


⑦ 山口県は八幡信仰が盛んであった(参考)


⑧ 下関市の綾羅木の地名こそ秦王国のことであった(参考)