天皇陵と周辺の土地計画 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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応神天皇以来に秦氏系の渡来人が増加したと定説では言われている。奈良盆地から河内平野(大阪平野)に進出し、父親の仲哀天皇の御陵の建設以来、河内平野を開発することになる。

現在の水田、住宅街の航空写真を分析して、当時を推測する。

応神天皇自身の墓の建設時期までは、インフラ整備も不十分なせいか、乱雑では無いが、綺麗な条里制地割は応神天皇陵周辺と道明寺あたりには無い。次の仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の御陵周辺には素晴らしい条里制地割の土地(現在の住宅街)が広がっている。

仲哀天皇より以前の天皇は奈良盆地にあり、乱雑な住宅街の中にある。ただし、水田地帯は綺麗な条里制地割になっている。

ただし、神功皇后は仲哀天皇より後に亡くなられているのに、御陵は河内では無く奈良盆地にある。仲哀天皇と神功皇后の御陵については、時代の流れに反しており、治定の再検討が必要です。


結論

応神天皇以前、奈良盆地時代は海人族安曇氏(C1)が開発した条里制地割の水田に、越系弥生人(O2a)が入植して乱雑に住宅を建設していたが、ここに斉系弥生人(D2)の天皇家が入植し、御陵を建設した。

秦氏(D2)出身の応神天皇は奈良を嫌い大阪の河内に入植するが、この時は少数の越系弥生人と混住しながら新天地を開発することになる。次世代の仁徳天皇の時代ころまでには渡来した秦氏と共にインフラ整備が進み、大阪湾沿岸の大規模の水田開発(条里制地割)を行った。当時、牛馬も輸入され大規模開発や世界一の前方後円墳を建設した。


参考

① 仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の御陵周辺の土地計画

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仲哀天皇陵(左)、応神天皇陵(右)

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土師ノ里と道明寺、土師氏、菅原氏の故郷(参考)

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仁徳天皇陵(右)、履中天皇(左)

{F3110838-9EB1-443B-97B6-8F509BC91D66:01}
反正天皇陵


② 神功皇后以前の御陵周辺の土地計画

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神功皇后陵(中央上)、成務天皇陵(中央下)

{7B75294A-76A4-456A-9107-BA0B7AC95CE7:01}
崇神天皇陵(上)、景行天皇陵(下)


③ 日本列島は海人族安曇氏が開発した(参考)


④ 呉系弥生人と越系弥生人の渡来ルート(参考)


⑤ 弥生人の中国大陸からの渡来ルート(参考)


⑥ 呉系弥生人と越系弥生人(参考)


⑦ 条里制地割は山東半島の斉国あたりがルーツ(参考)


⑧ 斉系弥生人は山東半島の斉国から渡来した(参考)


応神天皇秦氏の渡来は、仲哀天皇と神功皇后の穴門の豊浦の宮における熊襲征伐と三韓征伐以降、考古学的には古墳時代中期(4世紀後半、参考)


10 倭国大乱(参考)


11 秦氏、土師氏、応神天皇(参考)