応神天皇は下関で誕生 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

本州最西端の岬「毘沙ノ鼻」の展望公園の出入口に立つ看板に、吉母の若宮神社は長門国一の宮、住吉神社の本宮であり、その浜辺で「応神天皇」が御誕生されたとある。吉母(よしも)の地名の由来は、神功皇后が海岸で藻をよせ集めて身を暖めてお産をされたことから“よせも”と言われたことからです。祭神は息長足姫命(神功皇后)、応神天皇、仁徳天皇

若宮神社、下関市大字吉母595
毘沙ノ鼻、下関市大字吉母字御崎

これが本当なら、応神天皇長州人説がいえますね!

{3E48CC77-F7B5-4752-B2FB-97E0DBABFFC9:01}
毘沙ノ鼻、本州最西端

{E2B13638-C551-457B-B699-F1FB655EE39E:01}
吉母、黒嶋観音から、右上に龍王山

{0B666446-103D-4A3E-8FFB-0B4516A4ED69:01}
吉母の案内看板、毘沙ノ鼻の展望公園とバス停の二カ所

{F28C343B-8E38-4C4E-9816-7E9C79A5AAA8:01}
吉母、若宮神社

{03F3B2F8-CCF3-491B-83D2-1E2201476832:01}
奉納額

{8A0ACA90-7E0E-45A0-80A9-24281318C7F3:01}
古木の輪切

神功皇后が三韓征伐から帰国、本州最西端の毘沙ノ鼻に到着後、直ぐにご出産されたと言うことです。征伐中に産気づき我慢して鎮懐石でお腹を押さえて帰国しますから、大急ぎで最短距離直帰したはずです!北九州の宇美八幡宮や多くの地域に誕生伝承があるが、無理があります。多分、もと熊襲の地を平定したことを宣伝するための神功皇后の工作です。だから、吉母の誕生地を明かせないのです。冷静に考えて、最も安全な自分の国に真っ先に帰国、出産します。

神功皇后は龍王山の頂上を目指して航海し、毘沙ノ鼻に上陸し、吉母の浜、現町内で応神天皇さんを出産しました。その時の胎盤の塚、胞衣塚(エナ塚)が残っています。

{D2964D01-1639-4CC9-A66E-AD97F84CD425:01}
エナ塚

さらに、長府の忌宮神社の近くに産湯のための水を汲んだ豊浦池がある。社務所の方は出生地については特に言明していませんが、北九州の宇美八幡宮では遠過ぎです。

{0E2BBE2F-EF0A-45CE-9D0C-7CABD33B0DED:01}
豊浦池、長府の忌宮神社付近

北九州市の皿倉山の麓の乳山八幡神社は、神功皇后が皿倉山頂で国見され、応神天皇に授乳された伝説を持つ。

参考







応神天皇の誕生地の従来説

日本書紀の研究によると、応神天皇の出生地、宇美と蚊田について、神功皇后摂政の巻では宇瀰としていますが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれました。」となっています。この記述に従い、北九州各地に誕生伝承が生まれました。

その中で、宇美=蚊田説をとって宇美八幡宮が最も有名ですね!通常、宇美を「産み」と解します。しかし、実は宇美町の最古の名前は魏志倭人伝から不彌(ふみ)国であった。また、宇美=蚊田説と別の場所説があるが、例えば北九州の奥地まで川の上流まで鎮懐石をお腹に抱いて我慢してワザワザ遡る必要があるだろうか?もと熊襲の地が戦後すぐに完全に平和な神功皇后の支配地になったことを象徴するエピソードにするための創作の感じがする。他の研究によると、北九州での仲哀天皇・神功皇后の伝承地に囲まれた地域ではあるが、岡水門・洞海湾と香椎・宇美の間には伝承がない空白地帯があるようで、ここは服属していない危険地帯と考えて良いであろう。この後、渡来系氏族の秦氏は北九州では豊国に定住するが、筑紫国には定住出来なかった事実からも、大きな勢力の存在が伺える。

また、日本書紀の記述のみに頼って北九州のあちこちに出生地が出来ると言うことは、どの地も確証が無いと言うことである。跡継ぎの次期天皇の出産は安心できる実家でするのが当然です。



応神天皇のキリスト的な生まれ方


仲哀天皇の死後、住吉大神(住吉三神)の託宣により、すなわち受胎告知をうけて神功皇后のお腹に宿ったまま三韓征伐に向かい、帰られた後、応神天皇がお生まれになりました。このため家臣の武内宿禰命が父親と言う不義密通説の他、住吉大神が父親と言うキリスト的誕生説がある。さらに神功皇后と一緒に朝鮮半島から渡来したとの説もある。まあ、これを信じるくらいなら穴門国(山口県下関市南部)出身者が実の父親と言っても可笑しくは無い。ただ、渡来系氏族の秦氏はこの時期から渡来しはじめている。


母である神功皇后と一緒に東征して大和に帰還する説話が神武天皇の東征に似ており、応神天皇が実在が確実視されている初代の天皇として、住吉大神や秦氏などと共に東征したとの説がある。


神武天皇に関しては、東征のおりに宇佐の次に福岡県北九州市八幡西区黒崎地区にある岡田宮に1年逗留したとあるが、穴門を往復した形跡が無く、また豊浦宮があった下関などには神武天皇に関する伝説が全く存在しない。


武内宿禰命は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代に仕えた人物で、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖とされる。


住吉大神(住吉三神)とは底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)である。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。


{6EF3902C-12DC-45DC-8148-669D349DD74C:01}



吉見の乳母屋社と黒井の杜屋神社は、元は吉母にあり応神天皇に授乳し、お守りした。山口県風土誌P438に以下のことが書いてあるとのこと。

乳母屋社(吉見龍王神社内)、守屋社(杜屋神社)

吉母の若宮神社由緒に「乳母屋、守屋二社之儀は本社御誕生之後、御乳を被上、御守を被仕候両社と申伝候。尤其後乳母屋社吉見下村に勧請仕、所之氏神と祝ひ、于今社御座候。守屋社は黒井下村氏神、同断之由と見ゆ」とある。

{D9189F8F-EF95-4A65-8E44-3943762F2F7C:01}
下関市吉見、龍王神社、乳母屋神社
大正年間に龍王神社に合祀された乳母屋神社が、「長門国第三鎮守」という。『下関市史―資料編V』所収の龍王神社文書の中に「長門国第三鎮守乳母屋社」(p.370暦応2(1339)年6月15日付「大宮司武真譲状」)、「当国第三鎮守乳母屋大明神」(p.370「乳母屋神社神殿造営貢録」)とある。また『長門国志』巻三に「一説云乳母屋 長門国第三鎮守也」(p.14)とある。

{3DD0C79F-D645-4FBC-A7DD-83325943CF56:01}
下関市黒井、杜屋神社、式内社、長門国三宮
延喜式には住吉坐荒御魂神社、忌宮神社、村屋神社が載っている。中世においては『長門国一宮住吉神社史料(上)』所収の杜屋神社文書に「長州一宮之末社黒井守屋大明神」(p.502年不詳3月19日付「毛利元就書状」)とあるように、一宮住吉神社の末社となっていった。


吉母と蓋井島

{AEEDC519-2D11-426D-9D46-15A7FAE50049:01}
吉母(現在地が毘沙ノ鼻)と蓋井島、上が西方向

{57BC7B4F-27DC-4D42-A42B-746C7940BD4C:01}
厳密な毘沙ノ鼻の場所

畳石、吉母の毘沙ノ鼻
毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」がある。
この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる。ここの地質は蓋井島まで連続し、途中、岩礁が舟から見られる。

住吉神社の領地
住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎(毘沙ノ鼻)の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、神社領と馬牧場の絵図で確認すると紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。