沖ノ島の21号遺跡の祭祀者はニニギノミコトであり、彼が降臨して来た場所が筑紫の日向、すなわち宮地嶽神社であった。
この宮地嶽神社は安曇氏のものであり、天孫(4世紀後半以降の渡来人秦氏)の沖ノ島における祭祀を安曇氏が助けたことになる。そして、645年の乙巳の変で安曇氏に代わって宗像氏に移ったことになる。当時から、祭祀場所としては高宮、大島、沖ノ島があった。
このニニギノミコトの古墳は5世紀中頃と言われ、天孫降臨の順序は一番早いのに埋葬時期は早くは無く、記紀の神代の記述で天皇など天孫は実在したが、誕生時期や即位順序が適当に動かされていると考えると腑に落ちる。
参考
① 沖ノ島に残る祭祀遺跡は番号がふられていますが、巨岩上の21号遺跡の祭祀を勝浦峯ノ畑古墳の被葬者が行っていたことが確認できるというのです。勝浦峯ノ畑古墳は5世紀中頃に築造された古墳と推定されるのですが、同古墳出土の舶載鏡「八乳獣帯鏡」片と同形鏡が21号遺跡でも数点確認されています。勝浦峯ノ畑古墳の被葬者は、当時、宗像地域の王だったと考えられるわけですが、沖ノ島21号遺跡の祭祀を行っていたのは彼だと推測されるわけです(参考)。
③ wikiによると、ニニギノミコトが天孫降臨してきた所が筑紫の日向のクシフルダケであった。
④ 宮地嶽神社が筑紫の日向のクシフルダケであり、神武天皇の東征の出発地であった(参考)。
⑤ 津屋崎、相の島あたりは海人族安曇氏の縄張りであり、宮地嶽神社の主祭神は神功皇后、勝村大神、勝頼大神となっている。しかし、宗像宮社記に書いてある。「宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だ。」と。社説(宮地嶽神社由緒)には中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、左に藤高麿(勝村大明神)、右に藤助麿(勝頼大明神)の三座であるという。この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だという。どれが正しいのであろうか?
645年の乙巳の変以降の政変と、720年までの刊行の記紀で、現代の定説としての祭神が定められたと考えると、記紀と宗像大社の主張をここでは取り上げず、宮地嶽神社の主張を受け入れると、宮地嶽神社の主祭神は阿部函相(阿部丞相、武内宿禰、安曇磯良)である。
藤高麿(勝村大明神)、藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」、「安倍助丸」であるという。「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である。塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも(参考)。
⑥ 阿部丞相は武内宿禰(安曇磯良)のことであり、安倍氏も安曇氏のことである。そしてニニギノミコトを案内したのが塩土老翁、すなわち武内宿禰であった(参考)。
⑦ 645年以前の沖ノ島祭祀は安曇氏が取り仕切っていた(参考)。
⑧ 海人族宗像氏が海北道中の中継地である対馬の漁業権を持つのは1300年ころと新しい(参考)。
もともと潜水技術に優れていた鐘崎の海女は、今から700年ほど前、対馬の守護代宗氏が鐘が崎を領有していた縁から対馬で漁業権を得て、アワビを捕り干しアワビにして、フカひれや干しナマコとともに俵物として中国へ輸出し換金した。家船で朝鮮半島に出かけた海女家族は、あまり魚を食べる習慣がなかった朝鮮の人々に漁獲法や料理法を教えたという。男はクジラを捕り、海女家族はやがて厳原近くの曲に枝村を営むようになる。壱岐の小崎、大浦(山口)、輪島などもそうした季節労働からやがて枝村ができたところである。
⑨ 宮地嶽古墳は7世紀後半の宗像君徳前の墓ではない。その規模は明日香の蘇我入鹿の石舞台古墳より大きく、安曇氏または子孫の蘇我高麗あたりの墓と考えるのがもっともらしい。