穴門は近い | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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穴門は小倉の篠崎八幡宮あたりから北方向にあった。すなわち、長府は門司関と同じ方向の東(正しくは北東)方向であり、神功皇后におっしゃられた北方向には現在の綾羅木川口(真の穴門)がある。

方向だけで無く距離的にも従来説の長府(=穴門豊浦宮)の方が遠く、関門海峡の急流を考慮すれば、なおさら綾羅木川(=穴門豊浦宮)の方が最もらしい。


参考

① 篠崎八幡宮

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篠崎八幡神社、北九州市小倉北区篠崎

御祭神
応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、宗像三女神、玉依姫

都市高速、紫川インターチェンジから直ぐそこの小高い丘が篠崎八幡神社です。


由来

神功皇后が三韓から凱旋の時、筑前の宇美で皇子(後の応神天皇)を御安産され、翌年穴門(長門)の豊浦宮にお向かいになる途中、鷹尾(高尾)山の山頂にあった大石(力石)の上に皇子をお立たさせ、遥かに菊の長浜や文字ヶ関を望み群臣を顧みて、「穴門は近し」と御懐かしみなさいました。

敏達天皇12年(584年)勅命により、この故事に基づき鷹尾山の麓に神社を建て、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀り、葛城小藤丸を祭祀に当たらせ『篠崎神社』とし、天平2年(730年)宇佐八幡宮から分霊を勧請、『篠崎八幡神社』としました。

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左が高尾山、右が現在地の宮尾山上の篠崎八幡宮

現在地には、嘉祥3年(836年)祇園社が祀られている宮尾山を美しき神域と御遷座になり、明治以前においては、源義基、平康盛、足利尊氏、細川忠興、小笠原忠真、小笠原忠総等が社殿造営をなさり、昭和46年の造営を含め、合計7回あったといわれ今日に至っております。


② あるURLによると:

豊前国葛城藤丸と規矩(きく)県主(あがたぬし)耳熊彦が皇后を筑豊の界に迎えに行った。菊長池に沿って亀甲の丘を越え、逢坂を経て二の熊に到る。吹上川を渡り、車駕を鷹尾山の麓に留めて山勢が丸い形をしていて他の山と違っているのを仰ぎ見た。

頂上に登り、東に菊花の浜、文字(門司)関を眺めて、北に没利阿閉諸島(六連・藍島)を見て、群臣を顧みて言った。「穴門は近い。」人々はそれからはこの山を近見という。この時、皇子が初めて立った石が今なおそこにある。

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1 穴門、2 後の長門国府


③ 響灘沿岸を岡県主の祖・熊鰐が神功皇后、仲哀天皇にご案内した(参考)。仲哀天皇は関門海峡を行き来したが、神功皇后には行き来の記述は無く、山陰海岸沿いに響灘から穴門や洞海湾に進入した。