豊浦団の基地は安岡漁港であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門国の軍団の豊浦団の五十長凡海部我妹は海人族安曇氏であった。すなわち豊浦団は海軍であり、白村江の戦い敗戦以降の本土沿岸警備の為に長門城の建設と同時期あたりに組織された模様!

基地としては二カ所あり、北浦海岸の穴門の豊浦宮に最も近い漁港(安岡漁港)と赤間ヶ関(下関の伊崎町か彦島海士郷町あたりの小瀬戸沿いの漁港、参考)になる。そして壇之浦は綾羅木海岸あたりとなる(参考)。


周防灘側の長府は7世紀後半から存在したようだが、長府と呼ばれるのは鎌倉時代以降であろう。長門国府としての機能は鋳銭使が国司を兼ねた時期と守護館が置かれた鎌倉時代以降である(参考)


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1 安岡漁港、2 小瀬戸(赤間ヶ関の伊崎、彦島海士郷)、3 穴門の豊浦宮、4 長府

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安岡漁港

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小瀬戸(上・伊崎、下・海士郷)

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長府の漁港(参考)


参考

① 凡海氏は海部(あまべ)を統率した伴造氏族で、『新撰姓氏録』には右京・摂津国居住の凡海連が見えるが、ほかにも周防・長門・尾張など各地に居住したことが史料から窺える(
参考)。


② 天平10年(738年)の周防国正税帳に、「長門国豊浦団五十長凡海部我妹」なる人物がみえる。五十長は50人で構成される部隊「隊」の隊長「隊正」の別名である(wikiより)。


③ 海部氏(あまべうじ)『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館 1990年刊):p37より(参考)

海部あまべを統率した伴造氏族。各地に連・直・臣・首・公姓の海部(海)氏が見られる。このほか、凡海(大海。おおしあま)連(天武朝に宿禰姓のの系統あり)・凡海直といった氏族が見え、凡海部という部民も存在する。

海部は海人(あま)の民によって組織され、海産物の貢納(製塩による塩の貢納を含む)、航海技術・航海労働(また、特に戦時における海上軍事力)の提供などによって政権に奉仕した部民集団をいうが、彼らが海上交通上の要衝に置かれた屯倉の運営に関与していたらしいことも、海犬養連氏(その管掌下にあった犬養部は飼養した番犬により屯倉の守衛を担当)の存在、同じく海人系の安曇(あずみ)犬養連氏の存在などから推測される。

海部諸氏の統一的出自伝承は成立していない。海部は摂津(凡海連)、尾張(海連、海部直)、三河(海直、海部首)、遠江・上総・若狭・越前(海直)、越中・丹後(海部直)、但馬(但馬海直)、因幡(海部直)、出雲(海部直・海部首・海臣)、隠岐(海部直)、播磨(海直)、吉備(吉備海部直)、備前(海部直)、備中(海部首)、周防(凡海直)、長門・紀伊(海部直・大海連)、阿波(海直)、讃岐・豊前・豊後(海部公)、肥前(海部直)などの諸国に置かれていたことが、海部および海部氏・凡海氏の分布から知られ(かっこ内の氏姓名は伴造)、また、それ以外にも、海部関係地名の分布から、伊勢・信濃・能登・安芸・淡路・土佐・筑前の諸国に海部の存在が推定される。

近年、記紀に伝えられる神武天皇の東征経路が海部氏、海部を含む海人族の故地と重なることが指摘されており、神武建国伝説の性格を解き明かすうえにおいても、この海人の首長は注目をあびる存在となってきている。

(参考文献)
小林庄次郎「海部考」『史学雑誌』19-3・5
前川明久「大和朝廷の朝鮮経営とその軍事的基礎」『続日本紀研究』123
後藤四郎「海部管見」『書陵部紀要』19
後藤四郎「海部に関する若干の考察」坂本太郎博士古希記念会編『続日本古代史論集』上所収
後藤四郎「海部直の系譜について」『日本歴史』329
渡辺則文・近藤義郎「海部と製塩」近藤義郎・上田正昭編『古代の日本』4所収
薗田香融「古代海上交通と紀伊の水軍」坪井清足。岸俊男編『古代の日本』5所収
黛弘道「海人族と神武東征物語」『律令国家成立史の研究』所収
松原弘宣「難波津と瀬戸内支配」『日本古代水上交通史の研究』所収 


④ 安曇氏の分布(参考)

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⑤ 条里制地割の水田分布(参考)

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海人族安曇氏の子孫の蘇我氏の所有地と推定。


⑥ 豊浦団(wikiより)

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注: 未だ解団されていないのかも知れない!幕末期に安岡地区からまとまって尊王攘夷の兵士が出現したのは、何かの言い伝えがあったのかも知れない!(14参照)


⑦ 白村江の戦いの敗戦後に長門城の建設と共に豊浦団が組織された(参考)。


⑧ 長門城は鬼ヶ城山であった(参考)


⑨ 長門国に名称変更する前の穴門国(参考)


10 本州の最西端、響灘沿岸は本土防衛の最先端(参考)


11 下関市安岡町冨任に長門国豊浦団五十長凡海部我妹がいた(参考)

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13 北浦海岸の神社の祭神分布(参考


14 安岡町民は尊王攘夷で明治維新にも貢献した(参考)


15 安岡浦は、他の浦と比べて漁業が隆盛なことで有名だった。安岡からは遠く対馬~韓国沿岸まで出漁していた。250年前の安岡浦保有船の記録によると、漁船62艘、いさば船(対馬や松浦の海産物を大阪まで運ぶ商船)8艘となっている。同じく150年前の記録には、三反船2艘、漁船88艘、磯小船50艘とある。現在は漁協に110隻の近海漁業船が登録されている。


15 云われは不明であるが、安岡浦には隣接して蛭子神社が2社ある。想像であるが、地元漁師の氏神と外来の豊浦団員の為の氏神の二社であろう。

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16 穴門館もこの辺り(参考)