長門国の軍団の豊浦団の五十長凡海部我妹は海人族安曇氏であった。すなわち豊浦団は海軍であり、白村江の戦い敗戦以降の本土沿岸警備の為に長門城の建設と同時期あたりに組織された模様!
参考
海部は海人(あま)の民によって組織され、海産物の貢納(製塩による塩の貢納を含む)、航海技術・航海労働(また、特に戦時における海上軍事力)の提供などによって政権に奉仕した部民集団をいうが、彼らが海上交通上の要衝に置かれた屯倉の運営に関与していたらしいことも、海犬養連氏(その管掌下にあった犬養部は飼養した番犬により屯倉の守衛を担当)の存在、同じく海人系の安曇(あずみ)犬養連氏の存在などから推測される。
海部諸氏の統一的出自伝承は成立していない。海部は摂津(凡海連)、尾張(海連、海部直)、三河(海直、海部首)、遠江・上総・若狭・越前(海直)、越中・丹後(海部直)、但馬(但馬海直)、因幡(海部直)、出雲(海部直・海部首・海臣)、隠岐(海部直)、播磨(海直)、吉備(吉備海部直)、備前(海部直)、備中(海部首)、周防(凡海直)、長門・紀伊(海部直・大海連)、阿波(海直)、讃岐・豊前・豊後(海部公)、肥前(海部直)などの諸国に置かれていたことが、海部および海部氏・凡海氏の分布から知られ(かっこ内の氏姓名は伴造)、また、それ以外にも、海部関係地名の分布から、伊勢・信濃・能登・安芸・淡路・土佐・筑前の諸国に海部の存在が推定される。
近年、記紀に伝えられる神武天皇の東征経路が海部氏、海部を含む海人族の故地と重なることが指摘されており、神武建国伝説の性格を解き明かすうえにおいても、この海人の首長は注目をあびる存在となってきている。
(参考文献)
小林庄次郎「海部考」『史学雑誌』19-3・5
前川明久「大和朝廷の朝鮮経営とその軍事的基礎」『続日本紀研究』123
後藤四郎「海部管見」『書陵部紀要』19
後藤四郎「海部に関する若干の考察」坂本太郎博士古希記念会編『続日本古代史論集』上所収
後藤四郎「海部直の系譜について」『日本歴史』329
渡辺則文・近藤義郎「海部と製塩」近藤義郎・上田正昭編『古代の日本』4所収
薗田香融「古代海上交通と紀伊の水軍」坪井清足。岸俊男編『古代の日本』5所収
黛弘道「海人族と神武東征物語」『律令国家成立史の研究』所収
松原弘宣「難波津と瀬戸内支配」『日本古代水上交通史の研究』所収
④ 安曇氏の分布(参考)
⑤ 条里制地割の水田分布(参考)
海人族安曇氏の子孫の蘇我氏の所有地と推定。
⑥ 豊浦団(wikiより)
注: 未だ解団されていないのかも知れない!幕末期に安岡地区からまとまって尊王攘夷の兵士が出現したのは、何かの言い伝えがあったのかも知れない!(14参照)
⑦ 白村江の戦いの敗戦後に長門城の建設と共に豊浦団が組織された(参考)。
⑧ 長門城は鬼ヶ城山であった(参考)
⑨ 長門国に名称変更する前の穴門国(参考)
10 本州の最西端、響灘沿岸は本土防衛の最先端(参考)
11 下関市安岡町冨任に長門国豊浦団五十長凡海部我妹がいた(参考)