神功皇后時代の穴門、響灘付近の地名 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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穴門の国辺りで日本書紀に出て来る地名を紹介する。主要と思われる地名で出ていないところが国防上で大切な地点であろう。


日本書紀に出て来る地名

穴門の国
関門海峡辺り、穴門の豊浦宮を主に油谷湾、旧大津郡あたりまでか?

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皿倉山からの響灘、遠景に藍島、白島、蓋井島、吉母などが見える。手前に戸畑区、洞海湾、八幡区がある。

津野大済(むこつのおおわたり)
油谷湾のある山口県長門市の向津具
岡の県主の祖・熊鰐は此処を防衛の東門と説明した。この後、神功皇后が三韓征伐に出征する時は、近くの島戸に東門鎮護、住吉八幡宮を創建した。

東門とは東端と同じ意味であるが、日本列島(特に本州)の東方向を南に90度回転させる方針が15世紀初頭まであった。世界に嘘の日本地図を教えた例

没利(もとり)島
響灘の六連島(むつれじま)、下関市
農業が主体の島で、漁労民は少ない。

阿閉(あへ)島
響灘の藍島(あいのしま)、北九州市
当時以降、古墳の島となり、江戸時代前期まで無人島で、後に漁業が主体の島になった。

柴島
響灘の白島(しらしま)、北九州市
現在まで無人島となっている。

逆見(さかみ)の海
塩の産地→吉見、永田辺り?「塩地」は、時期的には藻塩製塩か製塩土器を用いた作業地のことである。響灘の潮を貯めて塩を作る入浜式塩田(正しくは揚げ浜式か?)は日本書紀完成(720年)頃から最近まであった。干潮時でも満潮に見えるから逆見の海で、日本書紀でこの表現をつかったのであろう。永田神社が古代塩田跡と近代塩田跡の間にある。「神功皇后が三韓征伐から帰還後、吉見と名付けられた」は地元伝承である。

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吉見、永田地区、昭和42年にはまだ塩田が見える。左手に海上自衛隊下関基地がある。

穴門の引島
下関市彦島(ひこしま)
響灘と周防灘をつなぐ関門海峡の島で、六連島、藍島、白島、蓋井島と関門航路に連なっている。彦島八幡宮

洞海(くきのうみ)
北九州市の洞海湾(どうかいわん)

名籠屋大済(なごやおおわたり)
北九州市戸畑区
現在は埋め立てられている名護屋崎で、洞海湾の入り口で天籟寺川の河口です。名護屋崎、牧山古墳の古墳群において、約1,400年前の人骨、鏡、銀鏡、土器の副葬品が発見されている。古代から戸畑は鳥旗、飛幡、戸端と書かれるが、岬の端という意味である。岡の県主の祖・熊鰐は此処を防衛の西門と説明した。

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名護屋崎、戸畑

この後、神功皇后が三韓征伐に出征する時は博多の筥崎宮を西門とし、923年に筥崎宮が八幡宮になった時、下関市の亀山八幡宮に西門を移管し、西門鎮護の八幡宮を関門海峡に3社体制とした。同時に北浦海岸の古代幡生湾に生野神社と大坪八幡宮を創建している。

周防のサバの浦
防府市佐波(さば)
響灘側にいた熊鰐が仲哀天皇を迎えに行くのに関門海峡、豊浦宮を通り越して周防のサバの浦まで航海したのは、侵入して来た塵輪に押されて豊浦宮を離れていたのであろう。

山鹿の岬
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿

岡の浦
福岡県遠賀郡芦屋町船頭町
岡水門は大倉主神と熊鰐と神功皇后の伝承がある。岡湊神社

橿日の宮(香椎宮)
福岡県福岡市東区


日本書紀に出てこない地名

本州最西端の島で、面積、現在の人口とも響灘で最大の島であり、この島に設置した灯台は響灘で最も遠くまで光が届く。

神功皇后伝説、神事が沢山残っている。特筆すべきは、蓋井島に辰韓(新羅)が上陸して占拠し本土上陸を狙ったことであろう。このため神功皇后は吉見から出航して戦ったが、豊浦宮まで塵輪に襲われた。しかし、熊襲に水先案内されて関門海峡経由で豊浦宮を襲った記述は無い。

同じ侵入経路を後世に残さない為に、蓋井島、鬼ケ城山などの具体的記述を記紀に書かなかったのであろう。

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吉見から蓋井島へ

北浦海岸の山々
鬼ケ城山龍王山、狩音山、久留孫山
本州最西端で最も標高の高い山々で航海の目標になる。

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鬼ケ城山、響灘から東方向に見える。

皿倉山や帆柱山など北九州の山々
これらの山々も航海の目標になる。山の名前など神功皇后伝説は残っている。山麓の乳山神社が伝説を継承している。

本州最西端の岬である毘沙ノ鼻
神功皇后の三韓征伐からの帰還伝説がある。


参考

【日本書紀】神功皇后
穴門豊浦宮から岡湊、香椎宮へ

仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。そして「穴門から向津野の大済(おおわたり)に至るまでを東門とし、名護屋の大済を西門としています。没利(もとり)島阿閉(あへ)島を御筥(みはこ)とし、柴島をミナヘ(鍋や器)としています。逆見(さかみ)の海を塩の産地としています。」と奏上して、海路を案内して行きました。山鹿の岬から廻って、岡の浦に入りました。

岡の湊(岡の津?)に来ると、船が進まなくなりました。天皇は熊鰐に尋ねました。「そなた熊鰐は嘘偽りのない忠誠心を持ってやって来たと聞いている。どうして船が進まなくなったのだ。」熊鰐が奏上しました。「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいます。男神を大倉主と言い、女神をツブラ姫と言います。きっとこの神々の御心でしょう。」と。天皇は祈祷して神意を尋ね、船頭の倭国の菟田(うだ)の人、伊賀彦を祝人(はふり)として祭らせると船が進むようになりました。

皇后は別の船に乗っていて、洞海(くきのうみ)から内海を通って行きました。まもなく、潮が引いて、動かなくなりました。その時、熊鰐が戻って来て、洞海の方から皇后を迎えに来ました。ところが船が立ち往生しているのを見て、畏れ入って、すぐに魚が泳ぐ沼池を作らせて、鳥たちが集まって来るようにしました。皇后は鳥たちが群れ集まって魚を狙うようすを見て、ようやく機嫌を直しました。潮が満ちて来ると船は岡の津(岡の湊?)に停泊しました。

また筑紫の
伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。

そうして、「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。


皿倉山から響灘、洞海湾が一望できる。




熊鰐の館跡だった仲宿八幡宮(北九州市八幡東区祇園)の配祀神に大綿津見命があり、熊鰐は安曇海人族であり、響灘を支配していたと考えられる。神功皇后は、熊鰐から献上された響灘の漁業権などを配下の住吉海人族や宗像海人族にも分け与え、特に北浦海岸については穴門から吉母までは宗像海人族、住吉海人族、安曇海人族に平等に与え、吉母以北は安曇海人族、住吉海人族に与えたと推定される。詳細は響灘、北浦海岸の海人族の分布にある。



若松恵比寿神社も安曇海人族ゆかりの神社(参考)


コメント

東門を正しく東方向に見出す為に、周防灘の北岸や南岸に沿って地名を探す研究があるが、国東半島を南下してしまったり、奇妙な結果となっている。

逆見の海を北九州市若松区の逆水池と見る向きもあるが、塩の産地とは思えない。記紀に合わせて名付けられたような気がする。製塩に適した地形でも無く、消費地である豊浦宮に遠い。