645年から703年の謎、九州年号とは実は蘇我年号であり、持統天皇の崩御で終わっていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大化改新(646年)から大宝律令発布(701年)までの年表に何とも言えない奇妙さがあるがのは誰もが思ったでしょう!九州王朝論の中で唯一真面目な研究に解明の糸口があった。

どうも、乙巳の変(645年)は697年頃に起こり、大化改新ほかの新制度と大宝律令(701年)などは連続して発布されたと考えた方が正しそうである。

蘇我蝦夷・馬子親子が殺される前に、皇族の不審死、白村江の戦いに対して倭国海軍(海人族安曇氏の水軍)の大敗、安曇比羅夫などの戦死、筑紫君薩夜麻(さちやま)が唐軍の捕虜となったことなど、蘇我氏と海人族安曇氏の弱体化が先行した(参考)と考えると腑に落ちる。

蘇我蝦夷・入鹿を重用した皇極天皇の在位を分割して、中間に蝦夷・入鹿の殺害を挿入し、後に斉明天皇として再登場させて遂には不審死させている(皇極:642年2月19日 - 645年7月12日、斉明:655年2月14日 - 661年8月24日)。その間に孝徳天皇を挿入しているが、不審死しているし、天智天皇自身は668年まで即位せず中大兄皇子のままで空位期間があった。年表の辻褄合わせに苦労が伺える。記紀成立前の白村江の戦いや壬申の乱などの人々の記憶を消す訳にいかないからであろう。

だいたい、乙巳の変(645年)から大宝律令発布(701年)までの苦難の道のりの中で、一貫して日本国を律令国家にして行くことは、一流官僚を揃えても無理であることは自明であった。また、この期間中の天皇陵は薄墓令があるにも関わらず、前方後円墳ではなく円墳ではあるが大規模であった(参考)

白村江の戦いそのものについても、天智天皇は唐の国と謀議していた疑いが伺える(参考)。また、天智天皇は近江の大津宮に居たことになっている668年当時、実は山口県下関市大字蒲生野に行幸して白村江の戦いの敗戦処理をしていた(参考)。

実際の蘇我蝦夷・入鹿親子の殺害を697年とすると、藤原不比等の娘を皇后とした文武天皇(697年 - 707年)の時代であり、蘇我氏系の最期の女帝の元明天皇や元正天皇の後を継いだ男子の聖武天皇が藤原不比等の娘を更に皇后にしている事実に符合する。さらに、九州王朝論での大化は703年まで続くとか!蘇我氏系の女帝である持統天皇(690年 - 697年在位)の崩御年(703年)と一致しており、持統天皇までが蘇我王朝、文武天皇から中継ぎの元明天皇、元正天皇の2女帝までが暫定王朝、聖武天皇から藤原王朝と言える。

ちょうどこの時期から、飛鳥淨御原令の施行を経てわが国最初の都城・藤原京建設、さらにはわが国初の本格的な律令法典である大宝律令の策定・施行と平城京遷都へと結実する。

持統天皇は火葬され、夫の天武天皇と合葬された。703年以降、真の薄墓となった。この持統天皇が最期の蘇我王朝(海人族安曇氏)と言うことか、素晴らしい異称、高天原廣野姫天皇を持っている。最期の卑弥呼であった!


参考

① 大化の謎とけるかも?(抜粋)

日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)川西市 正木 裕から抜粋した。

{88F193FD-41DA-43E1-BCE6-3A6D2CE7BCBC:01}


② 文武天皇

{204CC991-4827-4F0A-B1A1-5B130DC43C04:01}


③ 天皇家系図

{D3E16951-2729-4D69-ACEB-6638A3799CB6:01}


④ 持統天皇(703年崩御)

{3FD20209-61FD-4713-94EE-9840B3015F84:01}


⑤ 文武天皇は藤原不比等の娘、宮子を皇后としている。

{98C5C1C0-875E-4DC9-ADCD-CC75534ED3B9:01}


⑥ 山口県における九州年号(参考)