白村江の戦いと外交交渉 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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白村江の戦いの大敗はヤラセでした。百済の遺民を日本に引き取ることが本当の狙いでした。新羅は朝鮮半島を統一し、唐は高句麗を制圧することが目的で三ヶ国とも利益が一致しました。

日本は大化改新から大宝律令制定まで、日本を改革する高度な人材が欲しく、百済の人材が欲しくてたまりません!だから唐と結託しました。

すなわち、白村江の戦いの前後に頻繁に遣唐使を派遣してスケジュール調整を行っています。このあたりを以下説明します:

① 4回目の遣唐使が唐に着いたころ百済が滅び、帰国後、天智天皇(まだ中大兄皇子)は後飛鳥岡本宮に遷都した。百済の遺民の要請で唐と戦うがあっけなく負ける。念の為、太宰府あたりにハリボテの防衛拠点を築く。

② 直後の5回目の遣唐使が唐に着いたころ、唐は高句麗を攻めるが、日本は知らん顔で6、7回目の遣唐使を派遣

③ 7回目の遣唐使の出発の後に

唐・新羅戦争が勃発したが日本は知らん顔。天智天皇は唐の高句麗支配に賛成していることを伝達。直後に唐は百済の遺民を日本に返還。

その後の壬申の乱など日本国内の不安情勢にも唐は知らん顔。日本も朝鮮半島には干渉していない。遣新羅使を送るようになる。

④ 701年、大宝律令制定と同時に日本国内の防衛体制を解除、直後に8回目の遣唐使を派遣するが、以降、派遣間隔が延びる。

以上


憶測であるが、白村江の戦いにおいて日本軍のいい加減な手抜き作戦で戦死した日本軍の将軍、安曇比羅夫は親百済派で、軍内の親唐派(天皇派)と反りが合わなかったのであろう。また、日本軍内の筑紫君が捕虜になっているが、彼らに負担を負わせる意図もあったかも知れない。敗戦後、太宰府あたりの防衛拠点作りも当然、北九州、すなわち筑紫の在地勢力の力を利用しており、かつて熊襲とか呼ばれた勢力の力の削減が主目的であったとの憶測も考えられる。

状況証拠ではあるが、初期の時点、天智天皇の661年の行動からやる気の無さが伺える。すなわち、斉明天皇が崩御されると、直ちに北九州の朝倉橘広庭宮から後飛鳥岡本宮に引っ込んでいる。それも、唐が高句麗に安東都護府を置いて制圧した668年まで中大兄皇子のままで天皇になって居ない。さらに天智天皇は遣唐使(7回目、参考⑤)を送り、遣使が唐の高句麗を制圧した事に賛意を表している。白村江の戦いの首謀者では無く、大津宮に蟄居しているから、唐への敵意は無いよと主張しているようにも取れる。(中大兄皇子(天智天皇)は影の政権で辣腕をふるった)


参考

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復元された遣唐使船


① 旧唐書や新唐書に書かれているが、遣唐使は唐から見れば「日本が唐に派遣した朝貢使」であり、日本は唐の属国と見做され、唐から保護されても侵攻される立場になかった。すなわち、唐は「白村江の戦い」を日本の裏切りとは認識していなかった。


② 遣唐使の往路年、復路年をwikiより抜粋し、その間に主なイベントを挿入する。

回     往路年             復路年
1  舒明2年(630年) 舒明4年(632年)

  645年、大化改新

2  白雉4年(653年) 白雉5年(654年)
3  白雉5年(654年) 斉明元年(655年)
4  斉明5年(659年) 斉明7年(661年)

  660年 百済が滅亡
  後飛鳥岡本宮(661年-667年)、
  大津宮(668年-671年)へ遷都
  661年5月 再興軍、第一派出発
  662年3月 再興軍、第二派出発
  663年8月 白村江の戦いで大敗

5  天智4年(665年) 天智6年(667年)

  666年、唐が高句麗へ侵攻、3度攻勢
  同年、百済人2000余人を東国へ移す

6  天智6年(667年) 天智7年(668年)

  668年、唐は高句麗に安東都護府を置く

7  天智8年(669年) 不明

  670年-677年、唐・新羅戦争
  671年、唐の副将、郭務悰が、47隻の大船団と2000人を率いて来訪し、日本へ百済の遺民を返還
  672年、壬申の乱、大海人皇子(天武天皇)が仕掛ける。
  701年、高安城を廃城、太宰府に向かう道も7世紀末には廃道

8  大宝2年(702年) 慶雲元年(704年)
9  養老元年(717年) 養老2年(718年)
10 天平5年(733年) 天平6年(734年)
11 天平18年(746年)不明
以下続く


③ 実際の戦闘行動をwikiから抜粋。

日本・百済連合軍がとった作戦は「我等先を争はば、敵自づから退くべし」という極めて杜撰なものであった。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられて、8年間も捕虜として唐に抑留されたのちに帰国を許されたとの記録がある。白村江で大敗した日本の水軍は、各地で転戦中の日本軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐・新羅水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。


安曇比羅夫(wikiより)

舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。

663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。


⑤その1 新唐書の記事に遣唐使があった記載があり、咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、~使者自言」とある。

1.かんこう元年(天智9年670年)

2.唐が高句麗を平定したことを祝す

3.夏音を習熟すると「倭」の意味を知り嫌ったこと(倭国から日本国にする予告)

4.この使者が自ら語った


⑤その2 『唐会要』倭国・日本国伝の記事では、「咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名」とある。


1. 咸享元年(670年)三月

2. 遣使が高句麗平定を祝賀

3. 以後は続いて朝貢に来る

4. 則天武后の時、自ら言うには、その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する

5. その名が雅でないことを憎んだ



⑥ 日本に引き取られた百済の民は百済遺民とよばれ、朝廷に仕えた(wikiより)。

天智10年(670年)正月には、佐平(百済の1等官)鬼室福信の功により、その縁者である鬼室斯は小錦下の位を授けられた(近江国蒲生郡に送られる)。百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は、朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。


⑦ 筑紫国への負担(参考)

702年(大宝二年)の戸籍断簡によれば、筑前・筑後両国の正丁(21~60歳の良民男子)は、美濃国と比較して16パーセントほど少ないという指摘がある。朝鮮出兵という国策が、九州地方に甚大な被害をもたらした数値だと考えられている。

史書には、唐土で三十年、あるいは四十年の捕虜生活を強いられ、帰国をはたした兵士の名が散見される。肥後国合志郡(かわし)の人で壬生諸石(みぶのもろいし)、筑後国山門郡の許勢部形見(こせべのかたみ)・上陽咩郡(かみつやめ)(上妻郡・かみつま)の大伴部博麻(おおともべのはかま)たちがそうである











: 正しくは701年より前は倭国(ヤマト)、以降は日本(ヤマト、ニッポン)と区別すべきですが、ここでは便宜的に日本と書いています。