武家としての毛利氏は相模国の毛利庄の出身までは確実であるが、それより前は大江氏、土師氏、野見宿禰、天穂日命と出雲系の天孫につながると自称している。
毛利氏が作った城下町は皆、美しい条里制地割、すなわち奈良や京の都の条坊制(条里制地割)であった。徳川氏などの物部氏(呉系弥生人)ではない!
参考
(参考)
鎌倉市の毛利季光の墓(向かって左)・大江広元の墓(向かって右)、江戸時代末期、村田清風が墓地整備をしたため、親子関係に捏造説も考えられた。
毛利氏は、鎌倉幕府草創の功臣大江広元の四男季光に始まる。大江広元の大江氏は、その系図によれば天穂日命を祖としている。天穂日の十四代の子孫が垂仁天皇に仕えた野見宿禰で、当麻蹴速との相撲に勝って相撲の先祖として崇められる伝説上の人物である。また、野見宿禰は皇后が亡くなられたとき、殉死の風習に代えて埴輪を作ることを提案し、土師職に任じられ土師臣を称するようになった。学問の神様として受験生の信仰を集める菅原道真の菅原氏も土師臣の後裔で、大江氏、菅原氏という古代よりの学者の家が同祖から分れたというのは面白い。
野見宿禰より十二代のちに現れた土師諸士(諸上とも)が、延暦九年(791)、桓武天皇から「大枝朝臣」の姓を賜った。同じころ、同族の菅原真仲と土師菅麻呂が同時に大枝朝臣を授けられている。大枝朝臣諸士の子本主は平城天皇の皇子阿保親王の侍女を妻として賜り、まもなく生まれたのが音人で、音人は親王の落胤であるといわれる所以となった。音人より八代の子孫に権中納言、大蔵卿に昇った匡房があらわれ、その曾孫にあたるのが大江広元であった。広元の出自には諸説があって、『江氏家譜』では藤原光能の子とあり、「中原系図」では中原広季を父としている。はじめ、中原広元を称し、源頼朝と仲のよかった兄中原親能の引き立てで、鎌倉幕府に出仕するようになった。広元が大江を名乗るようになったのは晩年のことであった。広元には数人の男子があり、嫡男の親広は寒河江氏の祖に、次男広時は長井氏の祖に、三男宗元は那波氏の祖に、そして四男の季光が毛利氏の祖になった(参考)。
徳川氏やその他、多くの城下町は乱雑な地割だった(参考)
武家は物部氏(呉系弥生人、O2b)、毛利氏のルーツは秦氏(D2)(参考)
萩城は平城であり、萩市街は防御的な環濠集落では無い(参考)