彼等は古来、女神(比売大神=天照大神=玉依姫=卑弥呼)を信仰していた(参考)。彼等の長、武内宿禰の末裔である蘇我氏は仏教を受け入れを推進したが、一族の根拠地の一地域である豊後国に先ず普及させた。ここに神仏習合が始まった(参考)。
乙巳の変(645年)に蘇我入鹿らが倒されてから720年の記紀の完成までに現天皇家により歴史が書き換えられ(参考)、沖ノ島祭祀は海人族安曇氏から海人族宗像氏に移され(参考)、宇佐神宮の祭祀は比売大神に応神天皇と神功皇后が追加され、この時期あたりから渡来人秦氏が豊の国に大挙して入植して、蘇我王国は秦王国に飲み込まれて行った。
ここで比売大神は卑弥呼から宗像三女神に読み替えられた。
参考
① 国東半島あたりの仏教遺跡(参考)
周防灘に丸く突き出した半島の国東半島は、奈良時代から平安時代にかけて六郷満山と 呼ばれる仏教文化が栄えた所である。今もその遺跡が半島の至る所に散在し人々は「み 仏の里」と呼んでいる。
崖に刻まれた熊野磨崖仏に代表される石造物も多く、国東塔と呼ばれる独特の石塔も見 ることが出来る。半島の付け根には全国4万八幡神社の総社で、秀麗な社殿をもつ宇佐 八幡宮がある。
六郷満山とは
奈良・平安時代に奈良や京都の文化に宇佐八幡文化や天台仏教、修験道などが混ざり合って 形成された神仏習合のこの地方(国東)独自の文化のことをいう。
六郷満山とは
奈良・平安時代に奈良や京都の文化に宇佐八幡文化や天台仏教、修験道などが混ざり合って 形成された神仏習合のこの地方(国東)独自の文化のことをいう。
② 仏教遺跡、臼杵大仏の由来、真名野長者伝説(wikiより)
「真名野長者物語」は昔話風のもあれば、古文書の読み下しでかなり具体的な内容のものまで見ることができる。他の同様な伝説と趣を異としているところは、年代の具体性や実在の人物の登場である。史実と照らし合わせれば矛盾する箇所も多々有るが、全体としては昔話や伝説の域を超えた、非常に保存状態のいい伝承物語だといえる。ただ、傍証となるものが少なく、史実とまではいまのところ言い難い。
この物語は大和時代(古墳時代)から飛鳥時代初期へかけての真名野長者一代記となっている。邪馬台国が滅んで200数10年後の話、というといかに古い伝承であるかを感じることができる。弥生の文化を色濃く残し、地方と朝廷との関係は、まだあちらこちらで軋轢を繰り返していた時代である。
この物語自体が編纂されたのは少なくとも平安期以降であることは間違いない。物語全体に漂う雰囲気はなんとなく大和、飛鳥のそれよりも平安の雅さを感じさせる表現が多い。
玉津姫は久我大臣の娘ということになっているが、史実上、久我大臣の名が見られるのは平安末期、源義経の奥方である"北の方"の父親としてである。物語では、久我大臣の居所は奈良の平城京ということになっているが、真名野長者が生まれたとされる継体天皇の時代とはざっと二百年の差がある。そこで"久我"を"蘇我"と読み替えるとまた新しい展開が見えてくる。
また、最初の難題の勅使に選ばれた"北面の武士"安藤隼人正であるが、北面の武士というのは平安期、院政時代に院の御所の警護に当たった武士のことで、院の北面に詰めたのでこの呼称がつけられた。これは1087年に設置されたものである。
欽明17年(555年)に豊後へ下ってきた橘豊日の皇子は最初に宇佐へ詣でたとされるが、宇佐神宮の由緒によると、この地に八幡神(誉田別命=応神天皇)が出現したのは欽明32年(571)年とされている。橘豊日の皇子が宇佐神宮に詣でたとすると、少しずれがあるが、「日本書紀」には神体山である御許山に神代の頃比売大神が天降られたとの記述があることから、宇佐には八幡神出現以前にすでに祭祀の場があったことも考えられる。
途中、省略
敏達6年(577年)3月上旬、守屋大臣は一門の家臣を集め、「豊後の国に真名野長者というものが居るが、異国から沙門を招き、仏像を取り寄せ、天竺祇園精舎とやらの体を移し置くというのは、神国の敵なり。その罪許すべからず。先年、わが父尾與大臣が流罪となったのも、皆長者の所為である。帝の勅はないが、急ぎ押し寄せ平らげ、寺院を焼き払い、三類のものども残らず討ち取るべし」と命じた。
以下、省略
④ 偽書、ウエツフミ(参考)