宇佐の奥の院、安心院は海人族安曇氏の根拠地 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宇佐の地は瀬戸内海航路の要衝の地で、必ず立ち寄らざるを得ない湊であり、先ずは海人族安曇氏の集住の地となった。


彼らが信仰する神が海人族安曇氏の女神、比売大神=玉依姫=天照大神であった。


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参考


① 宇佐市、安心院町誌(参考)


安心院(あじむ)という地名の沿革には葦生説と阿曇説と安心院説とがある。


阿曇氏は海洋部族の首長であり、早くから漁猟、航海、殖民に従事し、各地に海部族の大集落を起した。『豊後風土記』に見える海部郡は『海洋民族白水郎の集落多きより起る』とある。上古すでに記紀に海神綿津見神三柱は、阿曇連らが祖神といつく神であると出ている。その発祥の地は筑前糟屋郡阿曇郷であると考えられ、その部下である海辺の部民を率いて海洋的大民族として、各地に航海すると同時に、朝鮮支那とも交通してその文化を吸収し、富強を以って聞えた。


『宇佐八幡託宣集』に神功皇后新羅征伐の際、響導となり、乾珠満珠を奉ったという伝説のある安曇磯良は、各地に招祭されて海神社や龍王社などに祭神として祭られている。


安心院の地方は安曇氏族の繁栄した所で、不弥国は海の国であって海洋民族の大衆落の名残であるとの説がある。松本清張が小説ではあるが『陸行水行』の中で安心院盆地の景観と、三女神降臨の古伝説を軸に、この地を『倭人伝』の不弥国に比定している。これについて林兼明は『邪馬台最後の謎を解く』ですこぶる痛快な結論をもって、『不弥国(フミコク)』は『日神国(ヒミコク)』であるといい、そしてこの日神国こそ建国時代の『宇佐島』すなわち『辛島』に他ならないとする。安心院の元名は『あずみ・阿曇』であり原始信仰、宗教習俗では『宇佐』と一心同体の関係で、宇佐の奥の院でもあった。


『九州人(毎日新聞刊)』にも安曇一族がこの盆地に拡がっていたであろうとの記載がある。そして盆地の中央にそびえる龍王山に海神が鎮座し、豊玉姫(龍神)を祀ってあり、南毛の松山神社 、下市の三女神社 は宗像三神である。飯田神社 、折敷田の貴舩神社、荘の大山神社はタカオウ、クラオウ、ミズハノメと水神を祭ってある。妻垣神社 にも三女神を祭祀してあるので、盆地の神社全部に水の神、海の神をまつってあることになる。


安曇族の各地に繁殖した証左になると思う。



② 比売大神(姫大神)を宇佐の地に古くから土着の民(海人族安曇氏)が祀っていた(参考)


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③ 宇佐の地は瀬戸内海航路の要衝の地であり、古代から多くの人々が行き来した(参考)。


④ “玉依姫”(タマヨリヒメ)について(参考)

託宣集(三所宝殿条)には、
「 一御殿 人皇十六代応神天皇の御霊、八幡大菩薩也
    二御殿 人皇第一神武天皇御母玉依姫の御霊也
    三御殿 人皇第十五代神功皇后の御霊也」
とあり、託宣集が成立(1313年)した鎌倉時代以前には、第二殿の“比売大神は玉依姫”という説が信じられていたらしい。


⑤ 上宮を支える亀山は海人族安曇氏の頭領の武内宿禰を象徴している(参考)


⑥ 天照大神は海人族安曇氏の神であった(参考)


⑦ 天照大神、宗像三女神、玉依姫、瀬織津姫、木花咲耶姫、姫大神は皆、同一神だった(参考)


⑧ 天照大神と卑弥呼は同一(参考)


⑨ 倭迹迹日百襲姫は卑弥呼で、海人族安曇氏が祀っていた(参考)


10 海人族安曇氏の根拠地は宮地嶽神社(参考)


11 本来は海人族安曇氏が沖ノ島祭祀を執り行っていた(参考)が、宗像氏に祭祀が移行してから比売大神を宗像三女神とした。


12 国東半島沖の姫島も海人族安曇氏の根拠地であった(参考)


13 宇佐から国東半島、臼杵、豊後水道あたりは海人族安曇氏の豊かな国(参考)


14 宇佐神宮の矛盾を安心院の足一騰宮が証明した(参考)


15 安心院、院内、由布院は元々は海人族安曇氏の領地であったがヤマト政権の倉院となった(参考)