各種の書物に出ている「年号」には、異なる系統の種類の年号がいくつか確認されていて、やや混乱がありますが、整理すると五二二年(あるいは五一九年)の「善記」に始まり、七〇一年の「大宝」まで続きます 。蘇我氏が私年号を持っていた可能性はある。彼らの所領は全国に渡り、彼らの私年号が広く発見され、九州に多くても驚かない。
法隆寺本尊・釈迦三尊の光背銘文にある「法興」という年号は『日本書紀』にも『続日本紀』にもない、私年号の中の年号である。聖徳太子は蘇我氏の血統であり、法隆寺に安置された仏像の光背に私年号が書かれてもおかしくない。
乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿親子が亡くなり、彼らの天皇記、国記の内容が日本書紀や古事記に反映されて、天皇家の歴史に一本化されたとしても、本来、天皇家(D2)と海人族安曇氏(C1)の共同作業である。天孫降臨のあたりは九州の安曇氏の歴史で、出雲神話が天皇家のもとして、両方反映されている(参考)。
日本書紀、古事記の完成直前、すなわち終盤の記述については、乙巳の変(645年)後の蘇我氏の全国の所領を取り上げたり(公地公民、班田収授法)、大化改新から大宝律令までの蘇我氏の成果をこの時期に持って来たりして、中大兄皇子(天智天皇)の作業を正当化する記述となっていると云われ(参考)、トンデモ説の九州王朝論者の餌食の種になっている。
さらに日本書紀や古事記の終盤の記述のつぎはぎ部分については、歴史の改竄を自然らしく見せるために彼方此方に神社を創建して辻褄合わせをしていることは指摘できる(参考)。神社の由緒が歴史の証人であることは間違いなく、維持されて欲しい。
また、白村江の戦いの前後の記述について、北九州辺りはわざわざ明記し、響灘沿岸の歴史は無理矢理に近江あたりに移したりしているのは、日本書紀や古事記が中国大陸の大国に読まれることを意識した防衛戦略を考えてのことと思われる(参考)。
乙巳の変(645年)以降の女帝は蘇我氏の末裔であり、彼女達が日本書紀や古事記の破棄を命じていないとすれば、蘇我氏の歴史もそれなりに反映されている証である。
参考
①-2 法隆寺の移築説(参考)
② 蘇我氏の末裔の皇女は女帝候補である(参考)
③ 山口県の長門市あたりの歴史が滋賀県内に移されていた(参考)
④ 長門国府も動かされている(参考)
⑤ 沖ノ島祭祀は本来は安曇氏が行っていた(参考)
⑥ 神社の創建は8世紀から(参考)
⑦ 大化改新から大宝律令まで(参考)
⑧ 蘇我馬子は推古天皇や聖徳太子の外戚で、上皇的な立場にあった(参考)
⑨ 九州王朝論に利用された蘇我氏の歴史(参考)
10 ウガヤフキアエズ王朝とは蘇我氏の祖先の系譜(参考)