生野と言う地名は、応神天皇から仁徳天皇の時代まで遡りそうだ!分布から見ると、渡来人秦氏が下関市あたりに上陸、定住し、東に移動しながら大阪市生野区あたりに辿り着いたのであろう。
大阪市生野区、中央
その他、横野、豊浦の地名が下関市と大阪の河内平野にあった(
参考)。
後の時代、百済から渡来人がやはり下関市あたりに上陸して大阪市の他、近江の琵琶湖東岸に定住した(
参考)。
以下に生野神社の境内にある古代幡生湾の説明図を示すが、朝鮮半島からの渡来人の入港地に適している。
参考
聖徳太子が四天王寺を建立される前から、当地に生野長者が住んでおり、舎利尊勝寺を建てた。
③ 秦氏の渡来の後、聖徳太子の時代以降になるが、大阪市生野区あたりに百済からの渡来人が集住した(参考)
そもそもは幡生八幡宮であったが、「昭和20年(1954年)に旧生野村名並に、往時の生野村総社の存名を以って幡生八幡宮を生野神社に改名する。」とした。
現在、幡生町に生野小学校があり、また生野町と言う新興住宅地が出来た。
⑤ 生野地名の分布
瀬戸内海周辺に分布し、西端が下関市で、東端が大阪市
播磨国風土記に、応神天皇の時代に生野と名付けたとある。
⑧ 生野区巽南1丁目1番の山小路にある歌碑
(参考)
実は、万葉集10-1825と藤原家隆の歌にある横野は下関市の地名であり、付近に村崎ノ鼻(ムラサキのハナ)がある(
参考)。大阪市生野区内や滋賀県の蒲生野では、例え古代でも紫草が生える環境では無い。
⑨ 他地区の横野
などがあるが、渡来人秦氏と関係ありそうな地域として、神奈川県秦野市の横野を指摘する。