御祭神:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神(多紀理比売命・多岐都比売命・寸嶋比売命)、彌都波能売神
由緒
第五十六代清和天皇、貞観二年(860)九月の創祀、当時京都大安寺の僧行教、天皇の勅命を受け、九州宇佐八幡宮に趣き、八幡宮の御分神を奉戴して、京都男山(今の石清水八幡宮)に皈る途中、当地が清地であり又、神功皇后ゆかりの地であることから、ここに仮泊し、御分神を奉祀したと伝えられる。
拝殿
豊臣秀吉のお手植えの松記念碑
幡生の古代入江の説明、神功皇后、豊臣秀吉もこの湾から出航した。神功皇后の三韓征伐の軍船の幡が生えたから幡生と呼ばれた。秦氏との関係も伺え、近くの稗田に秦屋敷があったとか。
本殿裏側、山頂に食い込んでいる。嘆きの壁形式の典型
参考
同じ古代入江の中にあった大坪八幡宮(羽山町)と共に亀山八幡宮、日本西門鎮守八幡宮、門司の甲宗八幡宮響と同時に関門海峡、北浦海岸を守るために創建された。北浦海岸の北の端は東門鎮護、住吉八幡宮である。
又、古来武将の崇敬も篤く文禄元年豊臣秀吉、朝鮮の役に出陣の際、松の木を八本手植し、戦勝を祈願したと云う(落雷の為、大正六年県知事認可の上、処分、拝殿正面の奉納額、松皮はその一部である)。昔はこの附近数ヶ村の総氏神として、地方人の崇敬は篤かった。響灘に浮かぶ六連島も古くはこの神社の氏子であったが海上遠い為、昭和四年二月、この神社より御分神を勧請して六連島八幡宮を建立した。
古代幡生湾は宗像海人族の縄張りか!元は安曇海人族の縄張りを神功皇后に献上後、宗像、住吉の海人族と再配分し、古代幡生湾は宗像のものになったのであろう。