火山(ひやま)、糸島市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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福岡県糸島市の火山(ひやま)は、かつて大宰府に急を知らせるための狼煙(のろし)を上げていたと云われている。

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右の赤点は糸島半島の火山、左に名護屋城跡(唐津市鎮西町)

この地は、西の唐津市鎮西町の名護屋城が豊臣秀吉の朝鮮征伐の出発地であったのと同じく、壱岐・対馬経由で朝鮮半島への新羅征討のための渡海ルートの地であった。

新羅征討将軍は海人族安曇氏の一族の蘇我氏、または蘇我氏や葛城氏ゆかりの皇子達であった。用明天皇と聖徳太子の御代は蘇我馬子がトップであった(参考)。


参考

① 火山(ひやま) 244.1m(参考)

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可也山のすぐ北側にある。山体は、花崗閃緑岩で できており、いわゆる火山(かざん)ではない。北麓の一部には、結晶片岩が分布しており、海上の渡島・コブ島に続 いている。また、東側の毘沙門山にもつながっている。

登山口は、南側、稲留(いなどめ)と北側、野北(のぎた)にあり、
稲留から登ると中腹に瑠璃光寺がある。ここの頂上から玄界灘と、立石山、芥屋の大門、幣(にぎ)の松原、幣の浜が展望できる。

《歴史》

※ 来目皇子(くめのみこ)の亡くなった所志摩野北の「久米」というところがある。ここを訪ねると、火山の北麓に来目皇子の墓所といわれる所がある。用明天皇 の皇子で、聖徳太子の弟にあたる。新羅征討将軍として、この地に二万数千の兵士を伴ってきたが、役割を果た せぬまま亡くなったという。現地には、桜の木が10本ほど植えられており、前福岡市長の進藤一馬氏による「今古俯仰之碑」 が建てられている。


② 来目皇子

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来目皇子殯斂地(参考)

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被葬者:来目皇子(用明天皇皇子)
所在地:山口県防府市桑山

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④ 新羅征討

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第1回

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第2回

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第3回

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⑤ 来目皇子の母の母の父は蘇我稲目

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⑥ 異母兄の当麻皇子の母は葛城氏

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⑦ 朝鮮半島からの帰還ルートについては、本州西端の山口県が近い(参考)