外浜町、現在の唐戸から壇之浦町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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源平合戦、朝鮮通信使、明治維新、日清戦争講和会議などのゆかりの地の唐戸から中之町、阿弥陀寺町、壇之浦町について

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唐戸市場

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亀山八幡宮

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李鴻章道、中之町
明治期、日清講和会議に出席する李鴻章が宿舎の引接寺と会議場の春帆楼を徒歩で往復した。

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赤間神宮、阿弥陀寺町

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壇之浦町


参考

① 外浜町(近世~近代、参考)、現在の中之町から阿弥陀寺町、壇之浦町の歴史

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唐戸(左下)から関門海峡の北岸に沿って、中之町、阿弥陀寺町、壇之浦町(右上)

江戸期~昭和31年の町名、江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領阿弥陀寺町と中之町に挟まれ,南は関門海峡に面し多くの船宿や旅宿があった(関の町誌)。地名の由来には諸説があり,九州への渡し場があるところから渡浜と呼ばれたのが,のち外浜となったとも(長門国志),離れ島であった亀山八幡宮から見て,外側にあったところから外浜と名付けられたともいう(昔の跡)。また赤間町・西之端町が繋船場であったころ,この地を内浜とし,以東の海岸を「そとはま」と呼んでいた。これがのち,外浜といわれるようになった(関の町誌)など諸説がある。元文4年の地下上申絵図に「外浜丁」と見える。長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)。寛政4年の家数80・人数267うち男126・女141(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)。天保9年の「人別並竈数控」によれば,家数80・人数217(武士・神官・僧侶を除く)で商家で占められている(赤間関人別帳)。旅宿も数軒あり,伊勢小(伊勢屋小四郎)には坂本竜馬はじめ多くの志士が出入りした(追加: 高杉晋作と西郷隆盛の会談などもある、参考)。船宿の川卯(川崎屋卯平)は,明治初期には汽船問屋・汽船旅宿として栄えた(関の町誌)。当町は山陽道の西の基点で,亀山八幡宮正面鳥居下に「山陽道」の碑が明治11年に建てられたこの地から九州への渡し場を堂崎渡場という大内家壁書には津渡しの渡船賃が定められており,中世からの渡し場であったことがわかる。長府藩の津口番所が設けられ旅人の検問を行った。また,高札場も設けられていた(下関市史)。寺院には浄土宗引接寺があり,明治28年日清講和会議が阿弥陀寺町の春帆楼で行われたとき,清国全権大使李鴻章の宿泊所となった。李鴻章が引接寺への帰路,暴漢に撃たれて負傷したため,事件後,李鴻章一行は阿弥陀寺町の本通りを避け,山沿いの小道を通って往復したが,のちにこの小道を李鴻章通りといった(下関市史)。廃寺に長福院があった(豊府志略)。明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す当町内の小字・小名に堂崎・後町があった(県風土誌)。津口番所跡に,明治6年赤間関電信局が西之端町から移設され,のち赤間関郵便局に合併されて移転(関の町誌)。同16年,赤間関郵便局が西之端町から移設された。煉瓦造り2階建ての局舎は下関での洋風建築第1号であった。同33年,東南部町に局舎を新築して移転なお,旧局舎は同35年から大正9年まで建築業の間組の社屋となった(間組社史)。大正15年,山陽電気軌道(現サンデン交通)が隣接地に社屋を新築して西之端町から移転。同社は昭和7年から同11年に移転するまで,間組跡の建物を本社分室とした(サンデン交通社史)。明治33年,外浜町郵便局開設町内にはそのほかに日本郵船下関支店,下関検疫所などがあった(馬関土産)。世帯数・人口は,大正14年100・476,昭和10年100・478(男240・女238)。昭和20年の空襲で町の大半を焼失昭和29・31年中之町となる


② 壇之浦町(参考)


③ 亀山八幡宮と亀山砲台(参考)


④ 明治維新の突貫工事と亀山砲台(参考)


⑤ 赤間町(近世~近代)、現在の南部町、唐戸、赤間町あたり

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中央あたりが唐戸、中央から左下が南部町、中央の上が田中町から赤間町

江戸期~現在の町名。江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領古くから赤間関の中心的商業の町。町名は赤間関の地名にちなんだもの(長門国志)。元文4年の地下上申絵図に「赤間丁」と見える。長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)。寛政4年の家数81・人数333うち男121・女212(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)。天保9年の赤間関人別帳によれば,家数70・人数254(武士,神官,僧侶を除く)で,ほとんど商家で占められている。大坂屋山のふもとに肥前藩の御用所があり,肥前屋敷ともいった(関の町誌)。元文4年の地下上申絵図に,「ヒゼンヤシキ」と記されている。弘化元年,末繁令輔が寺子屋を開設したが,文久3年廃止(下関市史)。寺院には真言宗法興寺があった。明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す当町内の小字・小名に栄螺小路・蛤小路・勝負口があった(県風土誌)。法興寺跡に大正4年,映画館の東館が開館ほかに,いろは倶楽部・邦楽座などが建つが,第2次大戦中および戦後には廃館となる。明治34年イギリス領事館が当町に開設されたが,同39年唐戸町に移転また勧商場の商工館があり(下関市史),山口憲兵警察区赤間関憲兵屯所があった(馬関土産)。世帯数・人口は,大正14年165・822,昭和10年147・741(男340・女401)昭和20年の空襲で町の大半を焼失。昭和29年,一部が中之町・唐戸町となり,関後地村【せきうしろじむら】・西之端町・田中町・奥小路町・裏町・中之町・稲荷町の各一部を編入。同31年西之端町・稲荷町(大坂屋)を編入。同39年一部が中之町・宮田町1丁目となる。世帯数・人口は,昭和45年237・774,同55年208・524,同60年253・598