長門国府と豊浦団 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門国府の中央として、忌宮神社の鎮座するあたりに国衙があったと考えられた。現在は、忌宮神社の隣にある長府図書館の敷地内に『長門国衙跡』が推定されているが、未だ遺物は出土していない。

孝徳天皇の646年(大化2年)正月、改新の詔が発せられ、大和朝廷を中心とする中央集権の政治体制が確立し、新たな行政組織として国郡が設けられた。長門国は厚狭・豊浦・美祢・大津・阿武の五郡からなり、豊浦津に長門国の「国府」が定められ長府とよばれた。

国府防衛といえば、長門城築城とともに、豊浦の地には、防人達の軍団、「豊浦団」も置かれた。また、瀬戸内海を横行する海賊の取り締まりや新羅賊船の侵入などの備えとし、最も多いときには、1000人を超える海関警備隊が組織されていたといわれている。

延暦11年(792年)に九州を除き全国的に廃止されたが、長門国も辺要警備のために500人以下であろうが延暦21年(802年)に再設置された。九州の軍団や他の軍団は天長3年(826年)に全面的に廃止されたが、豊浦団は貞観11年(869年)に赤間関に兵士を派遣する体勢をとって、西日本唯一の軍団として存続した。最終的な廃止年は不明である。


注: 2016年3月28日現在、平安時代までの長門国府は綾羅木川流域にあったと考えられている(参考)。現在の下関市長府が長府と呼ばれるようになったのは、鎌倉幕府から長門国の守護が派遣され長府に滞在するようになって以降のことである。すなわち、豊浦団も下関市の西側の北浦海岸あたりに駐屯していたことになる。


参考