国府防衛といえば、長門城築城とともに、豊浦の地には、防人達の軍団、「豊浦団」も置かれた。また、瀬戸内海を横行する海賊の取り締まりや新羅賊船の侵入などの備えとし、最も多いときには、1000人を超える海関警備隊が組織されていたといわれている。
延暦11年(792年)に九州を除き全国的に廃止されたが、長門国も辺要警備のために500人以下であろうが延暦21年(802年)に再設置された。九州の軍団や他の軍団は天長3年(826年)に全面的に廃止されたが、豊浦団は貞観11年(869年)に赤間関に兵士を派遣する体勢をとって、西日本唯一の軍団として存続した。最終的な廃止年は不明である。
注: 2016年3月28日現在、平安時代までの長門国府は綾羅木川流域にあったと考えられている(参考)。現在の下関市長府が長府と呼ばれるようになったのは、鎌倉幕府から長門国の守護が派遣され長府に滞在するようになって以降のことである。すなわち、豊浦団も下関市の西側の北浦海岸あたりに駐屯していたことになる。
参考