長門城、鬼ケ城山について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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長門城の候補の鬼ケ城山頂からの響灘(吉母の北、室津、黒井、川棚あたり)

下関駅から山陰線で吉見駅の次に梅ケ峠(ウメガトウ)駅があり、その東に鬼ケ城山(オニガジョウサン、620m)、西に二つ山を超えて吉母、蓋井島がある。 祖父から「あの山にゃあ、昔、鬼がおったほいね」と聞いた。7世紀頃、この鬼ケ城山の中腹に長門城(ナガトノキ)が築かれたのではないかと推定され、確かに現在も石塁が残っている。

{31E6C7FA-FF6D-475D-806D-6152503CF079:01}登山口、写真手前の左右(南北)に旧北浦往還道(県道244号)がある。


{F3D9396B-3D2A-469C-B892-F20E3456C69F:01}鬼ケ城山頂

7世紀の白村江の戦いでの敗北を契機に築かれた城であるが、日本書紀には天智天皇4年(665)と天智天皇9年(670)、長門国に城を築いたという記録があり、城は2ケ所に築かれた。比定候補地は10カ所位あるが、私見としては関門海峡を見下ろす下関市の長府と壇之浦の間の唐櫃山(カラウトヤマ)141mと、響灘側の鬼ケ城山(隣りの狩音山を含む)が最もらしい。特に、鬼ケ城山は本州最西端地点の吉母に近く、西方の響灘に向かい蓋井島、沖ノ島、対馬があり、神功皇后の三韓征伐時の帰還ルートになっているため、考察の対象とする。唐櫃山については、読みが鬼ケ城山の隣の狩音山(カラウトヤマ)と同じで、韓人が築城した山と解す。

鬼ケ城山頂と狩音山頂ともに旧下関市と旧豊浦郡の境界にある。鬼ケ城山頂と吉母、若宮神社が東西に並び、黒井、杜屋神社と吉見、龍王神社乳母屋社南北に並んでおり、ほぼ十字を形つくる。実際に侵略軍団の上陸が予想される黒井、室津、川棚、吉見、安岡には鬼ケ城山麓の旧北浦往還道(県道244号)で南北一直線に連絡して戦略上も最適地であった。蓋井島は新羅の塵輪に占領され仲哀天皇に追い払われ、また蓋井島、吉母、吉見には神功皇后の三韓征伐からの帰還が既にあり、室津、黒井には後々の元寇で元軍上陸が起こった。さらに鬼ケ城山頂は響灘の室津、黒井、川棚、吉母、吉見の側の監視が出来、周防灘側の四王司山頂、南の龍王山頂が見える。龍王山から響灘の吉母、吉見、安岡の側が監視出来、さらに狼煙通信により中継して火の見山、火の山、霊鷲山、唐櫃山、長府、赤間関の間で連絡が出来る。防人の軍団、豊浦団との連携が可能である。この戦略が後々の元寇、弘安の役で日本の勝利にまでつながった。


参考

当時、唐と結んだ新羅が百済を攻めた。百済が日本に救援を求め、日本は援兵を朝鮮半島へ送ったが惨敗、日本兵は敗れた百済人を亡命者として連れ帰国した。その後、唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州と長門に城を築いたという。下関の調査では、鬼ケ城山及び狩音山の3.5kmの範囲に石塁があり、鬼ヶ城の頂上は削平の跡が見られ、最高所に岩を集め埋もれているという。

長門城の具体的な場所が日本書紀に書かれていない理由は、当然ですが防衛機密であるためです。これを日本書紀などに明記すると秘密の航海ルートが暴露ることになり、応神天皇の真の誕生地を隠した理由と同じことです。

博多湾沿岸部については結構、魏志倭人伝や日本書紀などに記述されているのは、日常的に外国人が出入りする公式な玄関口にしていますから、博多湾沿岸部は秘密に出来ません北九州が最も中国大陸、朝鮮半島に近くにあると認識させ、防衛に関してもショーウインドにして鉄壁な守りを見せつけ、外敵を北九州に集めることを想定しているのであろう。日本書紀に6世紀に新羅の国使を「穴門館」に立ち寄らせたが、これ以外、博多の筑紫館、鴻臚館を使用している。7世紀、白村江に敗れ北九州などに防人軍団を作ったが、9世紀中頃、唐の国力低下に合わせて最後の防人軍団の豊浦団を長府に置き日本西門鎮守八幡宮を赤間関に建立したと言うことは、例え北九州が占領されても長門で食い止めると言うコスト削減戦略であろう。

彦島八幡宮のある地は関門海峡と響灘の両方の守りに重要であり、仲哀天皇、神功皇后時代からの防衛基地であり、さらに真北の北浦海岸の最北端の島戸に東門鎮護、住吉八幡宮あった。

豊浦町史編纂委員会が鬼ヶ城に長門城の調査団として現地調査を行い、小田富士雄先生(福岡大名誉教授)も踏査に登られたが、未だ結論は出ていない。委員会の一筆者は鬼ヶ城(標高六二〇メートル)から狩音山(五七七メートル)の間の西側(海側)の谷と尾根を全て歩き、中腹の谷筋の海抜三〇〇から四〇〇メートル付近に計十二基の石組を確認した。これは石垣ではなく、石塁である。従って、長門城ではなく、元寇、弘安の役後の第三次の元寇に備えた防塁で、山城になる、、と言う報告をしている。しかし、石垣である必要は無い。例えば、大野城は四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は石塁を築き、城内には倉庫などが建てられた。このような構造を持った山城は、百済の山城がモデルとなっているので朝鮮式山城と呼ばれている。鬼ケ城山の地域はいろいろな時代の夷狄浸入の可能性があり、継続的な築城も含め、あらゆる可能性を否定してはならない。














石松好雄、「長門城」推定地をめぐって(覚え書き)、29ページ、研究紀要 第12号、2008 下関市立考古博物館


響灘、玄海灘の航海目標が防衛最前線でもある。




余談

JR山陰線の梅ケ峠駅がある国道191号線上の梅ケ峠であるが、埋めて築造した人工の峠で、また砦ではなかろうか!梅ケ峠現地に行って検討した。室津、黒井と吉見、安岡は国道191号線と旧北浦往還道(県道244号)の2経路あるが、梅ケ峠を埋め立てれば、旧北浦往還道(県道244号)に交通が限られる。侵略軍団が室津や黒井、川棚に上陸し、瀬戸内海に浸入する場合、旧北浦往還道(県道244号)を通ることになり、長門城である鬼ケ城山頂から見下ろす麓を侵略軍団が通過し、殲滅させることが出来ると期待できる。


豊浦町史によると梅ケ峠も鬼ケ城山麓の旧北浦往還道の峠もかつては埋炭ヶ峠と呼ばれており、防衛のために峠を埋めたことが証明された。

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吉見、吉母、黒井あたりの地図に関係する地点を赤丸した。中央が梅ケ峠、東に鬼ケ城山、狩音山、西に蓋井島、吉母、若宮神社、北に黒井、杜屋神社、南に吉見、龍王神社乳母屋社


梅ケ峠が秦氏の砦かどうか検討した結果、鬼ケ城山を中心とした東西南北に秦氏の防衛拠点があった。


鬼ケ城山や狩音山から見えにくい蓋井島方向については、梅ケ峠と吉母、毘沙ノ鼻の間を仕切る南北に伸びる山並みの最高峰が草場山で、梅ケ峠の西側の守りと響灘監視に役立つ。


最近の研究の結果、梅ケ峠の砦は夷狄からの防衛拠点であり、渡来人の受け入れ施設高天原であることがわかった。








百済遺民は長門城を目指した(参考)


もう一ヶ所の長門城としての長府の土塁(参考)