穴戸国の穴とは朝鮮半島の古代の国の安那(あな)が由来 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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山口県西部の古代国名の穴戸の由来について検討する。

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綾羅木川の河口から上流、背面が響灘

7世紀後半からは長門国に改称され、長府に国府かが置かれた。その前の穴戸国は綾羅木川下流域あたりを中心とし、仲哀天皇が豊浦宮を置いた。この綾羅木川は北浦海岸から響灘に流出する。

この綾羅木川の河口を穴戸と呼ぶようだ、しかし、普通のどこにでもありそうな川の河口から穴戸と呼ぶようになったかどうかには自信が持てない。江戸時代、古事記伝を書いた国学者・本居宣長曰く、古代、九州と本州は繋がり穴が開いていた。ここに神功皇后が開削した故事から穴戸と呼ばれるようになったとのことだが、勿論信用していない。

当時、朝鮮半島南部に加羅、安羅、安那などと呼ばれた国があり、ここから下関の西部の北浦海岸に渡来人が渡って来たことから、安那(あな、穴)からの渡来の受け入れ窓口という意味で穴戸(あなと)と呼ばれたと考えられる。この受け入れ窓口が綾羅木川の河口を遡ったあたりと考えれば納得でき、綾羅木川の河口が穴戸とと直接結びついても可笑しく無い。ここに仲哀天皇の豊浦宮が置かれたと考えれば腑に落ちる。


注: 7世紀後半から国名を変更して長門にし、更に全国的に二文字の縁起の良い地名にする好字令が出された。この理由として、白村江の戦いの敗戦に対応して日本国全体の地理情報を外国から隠すためであろう。


参考

① 長門の国と改称前の国名、穴戸(又は穴門)について(wikiより)

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② 穴戸の由来について、関門海峡を穴と見立てた従来説に基づいた考察(参考)


③ 綾羅木川下流域の秋根から延行、綾羅木、伊倉あたりが穴戸国であり、豊浦宮が置かれた(参考)


④ 綾羅木の地名の意味は隋書にある秦王国のことである(参考)


⑤ 仲哀天皇が5年の歳月をかけて開削した穴戸とは綾羅木川の浚渫工事(参考)


⑥ 長門国の旧名の穴門(アナト、穴戸)についても安那人の居所という解釈がある(参考)。


⑦ 隣町、安岡の町名の由来(参考)


⑧ 古代、関門海峡は陸続きで穴が開いていた(参考)?

穴門・穴戸(あなと)は関門海峡のことであり7世紀に穴戸国が設置され、7世紀後半には長門国と改めた。関門海峡は元々陸続きであった。

本居宣長(1730年-1801年)の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。

平田篤胤(1776年-1843年)によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となった。


⑨ 下関市(旧赤間関市)の唐戸の由来は、唐(7世紀の中国)などへの戸(玄関口)に由来していると推測することは自然で通説となっている。

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10 好字令

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11 金達寿『日本の中の朝鮮文化 』によると

古代南部朝鮮にあった加耶諸国のうちの安羅が阿羅・安耶・安那とも書かれ、また安羅・安那・安耶が漢織・穴織の漢・穴ともなり、さらに漢氏・漢人・漢部などという氏族名ともなった。

すなわち、下関市の地名について、穴戸の穴(あな)、綾羅木の綾=安耶(あや)=漢(あや)、安岡(やすおか)=やすらがおか=安羅岡の安羅(あら)などは同じルーツであった。

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注意: 実は、古代朝鮮、すなわち三国時代の朝鮮半島は原日本語をしゃべる原日本人の土地であった。現代韓国・朝鮮人の祖国は挹婁・靺鞨であり、現代のエベンキ族と血縁である。