下関市の安岡の地名の由来と朝鮮半島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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下関市安岡町の名前、安岡の由来について、神功皇后が岡に上られてご休憩されたことからやすらヶ岡と云われている。私見であるが、朝鮮半島の倭人の国、任那に安羅(あら)と言う地域があり、この地域とのつながりから、安羅ヶ岡→やすらヶ岡→安岡となったと空想している。ちなみに、この安羅は現在の釜山に近く、古代の舟で最短距離で本州の安岡に到達できる。このやすらヶ丘は今でこそ砂が採られて平地になったが、もとの標高(写真の視点)なら東西に視界が開け、日の出と日の入り遥拝するには最も適したところである。

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旧安岡中学校跡地(やすらヶ岡)から北浦海岸(響灘)を望む

隣町に綾羅(あやらぎ)があるが、これも神功皇后の勝どき(アヤラー)があるが、この綾も安耶(あや、安那、あな、安羅、あら)や漢人(あやびと)のアヤとのつながりが指摘されている。ちなみに、羅は国土、木は来ると言う意味らしい。さらに、長門国の旧名の穴門についても安那人の居所という解釈があるらしい(参考)。

綾羅木郷遺跡(弥生時代から古墳時代)、右手は安岡地区、上面は北浦海岸(響灘)


参考

高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那・加羅、安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。これに対応していると思われる日本側の記録に、日本書書紀では369年とされる神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させたと言う三韓征伐があった(wikiによる)。

まだ日本本国が倭(ヤマト)であって日本(ニッポン)と称していなかった時代に、韓半島南部の任那の安羅が日本府を名乗ったことについて、以下の説明がある。韓半島東部の新羅の地名は日の出を意味するボルネオ語の「シラヒース」で韓半島東部を表す。いっぽう、韓半島南部の安邪:安羅:阿羅:咸安の安:アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅がその南部の代わりに、“お日様に一番近い”、故に「日本府」を名のったのであろう (引用、古代朝鮮に南方漁労民族系の卵生神話がある。参考)。後に、日本に渡来した太陽信仰を持った子孫が国号を倭から日本に変更した可能性がある。

逆に、日本の軍事的出先機関、任那倭府があったと言う説もあるが(参考)、文化や技術で先進国であった任那を支配したとは考えにくい(参考)。伽耶と当時の日本、倭の関係は非常に深く、日本の古墳の多くから伽耶系の鉄製甲冑や馬具、冠がでてくるし、伽耶の地域に小規模ながら日本独自の墓制である前方後円墳がある(参考)。


解説

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阿羅伽耶(安羅)、金官伽耶(加羅)、現在の釜山は半島の南東端にある。

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朝鮮半島南部の古地名(四角で囲む)
下関市立考古博物館発行、平成17年度開館10周年記念展、一衣帯水の世界 ー 古の日韓交流 ー

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朝鮮半島縦断ルート

明国を目指した豊臣秀吉の文禄の役と慶長の役の進軍ルート(参考)

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赤点が高身長人骨(弥生時代、古墳時代、出所)


秦氏はすでにヤマト政権そのものであり、秦氏は倭人と見なされたが、朝鮮半島に残留した大多数の秦氏を救出して日本に渡来させる5世紀以降について記述する。秦氏と一括りしたが、ザックリと分けて、出身地を安羅とする漢氏と,金海加羅を出身地とする秦氏がある。

秦氏、東漢氏(やまとのあやうじ)と並ぶ古代の渡来人中の雄族。記紀や『新撰姓氏録』などによれば、応神朝に秦の始皇帝の後裔の弓月君(ゆつきのきみ)が120の県(こおり)の人民を従えて移住したと記すが、中国系ではなく新羅系の渡来人で、渡来時期も5世紀以降と想像される。ハタは、朝鮮語で「海」を意味する「パダ」に由来するとの説もある。山背(やましろ)国(山城(やましろ)国、京都府中・南部)を拠点として秦氏とその支配下の民(秦人・秦人部・秦部)の分布は日本各地にみられ膨大な数に及ぶ。朝廷の蔵を管理し、大和(やまと)王権の財政をつかさどる一方、新羅系の技術者を擁して鋳工・木工などの各種技術部門の主導権を握り、鉱山の開発や灌漑(かんがい)・土木事業を推進するなど殖産氏族としての活動が顕著である(参考)。

漢氏(東漢氏、西漢氏、今来漢人など)
東漢氏、やまとのあやうじ-倭漢氏は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした(参考1参考2)。

金海加羅、朝鮮古代の加羅諸国中の有力国。別名は金官加羅,大伽耶,狗邪(くや)国,狗邪韓国,駕洛(から)国,任那(みまな)加羅,任那。現在の慶尚南道金海郡を中心とし,王都址の金海邑には多くの遺跡があり,早くから開けていた。3世紀には韓族,倭人諸国および楽浪・帯方両郡などの海上交通の要衝として栄えた。400年には南下した高句麗軍の主要な攻撃目標となる有力国であった(参考)。

安羅広開土王碑文によれば,400年ころのこの地方には,任那加羅(金海)や安羅(咸安)など多くの国(加羅諸国)があり,この2国が代表的な国で,侵入してきた高句麗軍に反撃するほどの強力な軍事力とかなり緊密な協力関係とがあったことが知られる。またこれらの加羅諸国は,倭と協力して,高句麗,新羅と対立していた(参考)。

任那に至るまでに、途中、弓月国に一時定住していたとか。